20


走って、走って、ひたすら走って。
駅から家までのほんの十分の距離を、私は全速力で走っていた。




ボスが、消えた。
朝はいた。朝は確かにいた。いつものように眠そうなボスがふよふよ浮いてるのを見た。学校に着くとボスはすぐに窓の外に飛んでいってしまうから姿は見えなくて、昼休みに屋上に上がった時も出てこなくて。その時に初めて「あれ?」と思った。ボスを呼んでみたけど返事はなくて、姿も見えなくて一人きりでお弁当を食べた。美味しくなかった。
ボスは放課後になっても出てこなかった。

何でだろうと疑問に思いながら、小さな声で何度か呼びかけてみた。でも返事はなくて。
ボスの姿が見えないまま、けれど私からそんなに離れることはないのだからとそこまで深く考えずに駅へ向かい電車に乗り込んだ。電車に揺られながらも視線は天井を向いていて、頭の中はボスのことでいっぱいだった。

何で出てこないんだろう――疑問は徐々に不安へと変わり、最寄り駅で電車を下りてからもう一度小さな声でボスを呼んだ。返事はない。姿も見えない。疑問よりも不安の方が大きくなってきたのもその頃だ。
せめてほんの一瞬でも良いから姿を見せてくれれば良いのに。何であんなに不安だったのかも分からずに、私はいつもとは違う人通りの少ない道を選んで家へと向かっていた。

「ボス」

呼びかけても返事はなくて。
きょろきょろとあちこちを見回しながら歩いていたけれど、ボスの真っ黒な姿はどこにも見えなかった。

怖くて。何でか分からないけど凄く怖くて。
もしかしたら元の世界に戻ったのかもしれない、それならば喜ぶべきことだ――そう思ったのに、やはり不安が拭えなくて。

人通りの少ない道で一人で歩いてたからだろうか。気が付けば背後に人の気配があって。ボスかと思って振り向いた、ら。
フードを目深に被った人の、ニタリと笑う口元だけが見えた。




走って。走って。走って。
追いかけて来ているのかも分からない。振り返る余裕がない。
ただ、怖くて。とにかく怖くて。

「っ、ぼす、ぼす……!」

運動不足の足は重く、息はどんどん苦しくなっていく。
黙って走ることに専念すれば良いのに、無意識の内に私は何度もボスを呼んでいた。

ボス、ボス、ボス。
助けて。
出てきて。
こわい。
ボス、助けて。
ボス、ボス、ボス――!

誰かの手が私の腕を掴んだ。
引き攣った声が口から漏れて、必死に振り払おうと身体を捩る。でも手は私の手首をがっちり掴んだまま離れてくれなくて。

「っ、ゃ、だ! ――ボスッ、やだやだ! 助けて! やだ! ボス、ボス、ボス!」
「るせぇ!」

身体が震えた。
苛立ちを含んだ声に恐れたからなのか、求めた声に安心したからなのかは分からない。
おそるおそる見上げるとボスの真っ赤な目が私を見下ろしていた。眉間に寄せられた皺がボスが怒ってることを告げている。辺りを見回してみると、さっき見たフードの人間はもうどこにも見えなかった。呼吸が整わないままに再びボスへと視線を戻す。いつもなら恐怖を覚えるはずの険しい表情に、何故か今だけはとても安堵して。

「カスが。何やってやがる」
「、ぼ、す……」
「ビービー喚きやがって」
「、ぼす、ぼす、ぼ、す……」

ぼろぼろと涙が溢れた。ボスの眉間の皺が更に増えたのが見えて、その後は何も見えなくなる。
私の手を掴んだのはボスの手だ。最近すっかり慣れてしまった、ボスの大きな手だ。

「ど、どこ、いってたん、ですか! しんぱい、するのに!」

ボスからの返事はない。
でもそんなの構わなかった。だって、私の手首にはまだボスの手の温もりがある。

「へんな、ひと、あうし」
「テメェが人のいねぇ道を選ぶからだろうが」
「だって! ボスがでてきてくれないからっ」

ボスが。
だって、ボスが。
いつもいるくせに、いきなりいなくなるから。
ズカズカと私の生活に入り込んできたくせに、いきなりいなくなるから。
そんなの心配するに決まってる。不安になるに決まってる。

「か、かってに、いなく、な、ならないでっ」

ばか。ボスのばか。ばかばか。
涙というものは恐ろしい。あんなに怖いボス相手に、私は何度も「ばか」と暴言を吐いた。
殴られる可能性だってあるのに。蹴られる可能性だって、撃たれる可能性だってあるのに。

「馬鹿はテメェだ」

返ってきた声は驚くほど穏やかだった。
泣くことで精一杯だった私はボスの顔を見ることは出来なかったけど、もしかしたら眉間の皺は消えていたのかもしれない。





おかえりなさい、幽霊さん。





涙が止まる頃にはすっかり陽が傾いていた。
オレンジ色に染まる道を歩きながら、少し前を行くボスのコートの端をそっと掴む。ちらりとこちらを見たボスは何も言わずにまた前を向いた。それが何だかくすぐったくて。いっぱい泣いた所為で頭はガンガンしたけれど、気分はとても晴れやかだった。

「汚ねぇツラだ」
「ボスがいなくなっちゃうから」
「素直に喜んでりゃいい」
「悲しかったし寂しかったよ」

言い返してハッとする。敬語忘れた。
やばいと思っておそるおそるボスを窺うけど、どうも怒ってるようには見えないから。

少しだけ、調子に乗ってみても良いだろうか。

「次またいなくなったら、ボスの耳元で大泣きするから」

チラリとこちらを見たボスに思わず身が竦む。でもボスは何も言わずにまたすぐ前を向いた。

「テメェの泣き声は公害だ」

その不細工なツラもな。続いたボスの声は、今まで聞いたことがない穏やかなものだった。と、思う。