分からない人だ。
目の前で土下座をするリサにじとりと恨めしげな視線を送りながら半助は思う。
「大変申し訳ありませんでした」
顔を上げないままに紡がれた謝罪の言葉にぷいと顔を背ければ、ちらりと窺うように顔を上げたリサの表情が悲壮感たっぷりなものに変わったのが視界の端に見えた。
「役得だって思っちゃえばいいのに。土井先生ってば彼女いない暦が長いからやたら動揺しちゃっ――ひぃだだだだ!!」
「余計なことを言うのはこの口か? この口かー!?」
やれやれ、と呆れたように肩を竦めるきり丸の頬を左右に思い切り引っ張り、半助は苦い気持ちになりながら溜息を落とした。
情けない。リサへの怒りよりも自分への怒りでいっぱいだ。頬に唇が触れただけだというのに、どうしてあんなにも動揺してしまったのか。学園に来る前は城仕えだったし、任務では色を使ったものだってあった。幼い頃に両親と家を失くしてからは生きる為に色々なことをしてきたではないか。だと言うのに今更、なぜ。
「はぁぁ……」
「……ごめんなさい」
手のひらで顔を覆い大きな溜息を漏らせば、小さな小さな謝罪の声が降ってくる。指の隙間からちらりと声の主へ視線を向ければ、情けなく眉を垂れさせたリサがしょんぼりと項垂れているのが見えた。
「………別に、貴方に怒ってるわけじゃありませんよ」
「だって、でも……」
先生が、だって、きり丸だって。
顔を俯かせたままぼそぼそと何かを呟くリサに微かに苦笑を零せば、何かを察したらしいきり丸が「あ」と声を上げる。余計なことを言うなとばかりに視線を送れば、へらりと笑ったきり丸は立ち上がって戸口へと向かった。
「きり丸?」
「ぼく、委員会があるのでこれで失礼しまーっす!」
「え? そ、そうなの?」
「はい! だからリサさんは責任持って土井せんせーの看病してやってくださいね!」
「あ、うん……じゃあ、頑張ってね」
「はい! そんじゃリサさん、土井せんせーのことお願いします!」
そう言い残して、きり丸はそそくさと医務室を出て行ってしまった。残されたのは半助とリサの二人。
少し前にトイレットペーパーの補充へ行くと言って出て行った伊作と伏木蔵がまだ戻ってこないのだが、また落とし穴にでも落ちているのだろうか。不運委員会なんて不名誉な異名を持つ保健委員会に属する彼らは、その異名に恥じない不運っぷりを遺憾なく発揮している。
「すみませんでした」
少しの間を置いて再び聞こえたのはリサからの謝罪の言葉だった。切羽詰った様子で頭を下げるリサに余裕の色は見えない。本気でまずいと考えているのだろう。半助の考えをこれっぽっちも見抜くことが出来ない彼女は忍には不向きだ。想像力が豊かというより、被害妄想が激しいだけのようにも思える。三年生の忍たまにも彼女のように想像力が豊かな――悪い言い方をすれば被害妄想甚だしい――生徒がいるのだけれど、この二人は一緒にしない方がいいのかも知れない。
「怒ってませんよ、言ったでしょう」
処罰を待つ罪人のような面持ちのリサに微笑みかけてやれば、窺うようにこちらを見上げてくる。主人に叱られた犬のようだ、なんて失礼なことを考えながらちょいちょいと手招きをしてみせると、深呼吸をして腹を括った様子のリサが膝立ちでこちらに向かってくる。すぐ傍で止まったリサへと手を伸ばせば、びくりと大きく肩を震わせたリサがぎゅっと目を閉じた。
「取り敢えず、仕返しです」
びち。額の前で強く指を弾いてやった。あぐ、なんて呻き声を上げたリサが僅かに仰け反る。仄かに赤くなる額を押さえたままきょとんとこちらを見つめてくるリサに、半助はしてやったりという顔で笑った。
「これでチャラにしてあげますよ」
「……い、たい、です」
「そりゃあ、力篭めましたからね」
「………すみませんでした」
肩を落として頭を下げるリサに「もう良いと言ってるでしょう」と苦笑すれば、今度は「いえ」と否定の言葉が返ってくる。
「こんなに力を篭めて仕返しをされるほど嫌がられたんだと思って………すみません、役得と思わせてあげられなくて……」
今度は半助が焦る番だった。
そこまで落ち込まれるとは思わなかった。と言うより、そんな風に考えてしまうとは夢にも思っていなかったのだ。
「いや、その……別にそこまで嫌だと思ってたわけでは……」
「だってめちゃめちゃ痛かったです」
「だからその、さっきのは行為に対する仕返しではなくて、悪戯に対する仕返しと言いますか……」
「怒ってませんか?」
「だからそう言ってるでしょう?」
「役得でしたか?」
「やっ……! そ、それは、まぁ、その……の、ノーコメントで……」
目を泳がせながら半助は思う。何言ってるんだ私は。こんなの、肯定しているようなものではないか。
彷徨わせていた視線をチラリとリサの方へ向ければ、やはり笑いを隠し切れずにいるリサがいる。
あぁ、畜生。
顔が熱くなっていくのを感じながら半助は頭を抱えた。
「土井せんせー」
「………」
「もう一回してあげましょうか」
「結構です!! さっさと仕事に戻りなさい!」
はーい、とすっかりご機嫌になったリサが立ち上がる。「頭お大事にしてくださいね」と指されたのはぽっこり腫れ上がった半助の後頭部。至近距離にあった顔と頬に触れた柔らかい感触、ふわりと漂ってきた女性特有のいい匂いに頭がパンクして気絶した際に木に打ちつけて出来たものである。
昔は忍として沢山の任務をこなしてきたのだ、女性に免疫が無いわけがない。確かに教職に就いてからはすっかりご無沙汰になってしまったけれど、だからと言ってあの程度で頭がパンクするはずがないのだ。ならば何故こんな無様なことになってしまったのかと考えてみると答えはすぐに出た。相手がリサだからだ。
「……リサさん」
「はい?」
「………何でもないです」
半助にとってリサは『子ども』だった。
彼女の年齢を知ってはいるけれど、それでも日頃の彼女を見てしまえば十九歳とはどうしても思えない。隠すことなく感情を露にするところも、ころころ変わる表情も、何もかもが彼女を幼く見せてしまう。遥かに年下のきり丸の方が大人に見える時があるくらいだ。
それでも彼女は女だった。子どものそれとは異なる女性特有の柔らかさだとか、ふわりと漂う香りだとか。子どもだと思っていた彼女が大人の女性であることを突きつけられて処理が追いつかなくなってしまったのだろう。つまりは、物凄く動揺したのだ。
言えるはずがない。お願いですから子どものままでいてください、なんて。考えてみれば数日前に彼女に結婚しようと言われた時にも似たような感覚を覚えた気がする。子どもが何を言ってるんだ、と思うと同時に、彼女が結婚していても不思議ではない年齢であることを思い出したからだ。
「土井せんせー? どーしたんですか?」
「……はぁ」
ひょいと覗き込んでくるリサの顔。先程よりは距離があるけれど、だからこそその顔の造りがよく見えてしまうのであって。
「綺麗な顔ですね」
「………、え? もしかして今、口説かれてるんですか?」
「違いますっ!!」
「ははっ、分かってますよー。ここら辺で見ないからそう感じるんじゃないですか? しんべえがね、私の顔は南蛮人のと似てるって言ってたし」
「それはそうなのかもしれませんが……」
顔は良いのに頭が残念なんだよな、なんて失礼なことを考えて半助は曖昧に微笑んだ。
「いま失礼なこと考えてませんでした?」
「さぁ、何のことやら」
むぅ、と訝しむリサにひらひらと手を振って仕事に戻ってくださいと再度繰り返せば、唇を尖らせながらも再び立ち上がったリサが戸口へと向かう。その背中を呼び止めて半助は言った。
「次は出席簿ですからね」
「もうしませんよーっだ」
んべ。舌を突き出したリサが唇を尖らせて拗ねた顔で戸を開けて出て行く。拗ねているというアピールなのか、いつもはまったく聞こえないというのにペタペタと足音を鳴らして去っていく音に半助は盛大な溜息を落とした。
残念ではない。決して。