六年生の中で誰よりも早く目を覚ました文次郎はいつもと同じように朝の鍛錬を終えて井戸に来ていた。
鍛錬を終えて火照った身体を冷ます為、汲み上げたばかりの冷たい水を頭から被るのは彼の日課であり、目を覚まして出てきた仙蔵に呆れたような視線を送られようが変えるつもりはない。
「朝から随分張り切ってたようだな」
「当たり前だ」
異世界からやって来た事務員――リサ。
一見ただの南蛮人のようにしか見えない彼女は、その華奢な身体に自分たちなど足元にも及ばないほどの強大な力を秘めていた。その事実を受け入れるのは苦痛だったが、いつまでも逃げているばかりでは何も変わらない。弱いのならば強くなれば良い。今まで以上にギンギンに鍛錬をしなければ。
朝から少し飛ばしすぎた気がしなくもないが、生半可な量では到底追いつけないのだ。
冷たい水を頭から浴びて身も心も引きしまった。よし、今日も一日ギンギンに頑張るぞ! と、気合を入れたところで不意に聞こえた足音。背後から聞こえたじゃり、と小石を踏みしめた音に振り返れば、硬い表情のリサが心許なさ気に立っていた。
「アンタ……」
「リサさん?」
文次郎と仙蔵の視線を受けて微かに身を揺らしたリサは、俯いたまま深呼吸をすると頭を下げて「おはようございます」と挨拶をし、何故かそのままその場に正座をしてしまった。
「あの……?」
戸惑う仙蔵の声を聞きながら文次郎はリサをじっと見つめた。
昨日はあんなに怯えて逃げていたくせに、今はこうして自分から近寄ってきた。何か言いたいことがあるのだろうということは分かったが、如何せん、あんな砂利の上で正座をする意味も、ましてや両手をついて勢いよく頭を下げた理由も分からない。
「昨日は、逃げてごめんなさい」
最初に紡がれたのは昨日の逃亡についての謝罪。そしてその後に続いたのは、
「お願いが、あります」
微かに震えた声による懇願だった。
「お願い?」
「――わ、私は、確かに……化け物のような力を、持ってます。いきなり別の世界からやって来たし、怪しいし、貴方たちが警戒するのだって、当たり前のことだって分かってます」
「、リサさん、それは――」
「でも、そんな私に、土井先生ときり丸は親切にしてくれたんです。熱を出して倒れてた私を助けてくれて、家に置いてくれて、この世界で生きていく為に色んなことを教えてくれました」
アルバイトを手伝わせてくれて、家事を教えてくれて、ご褒美にと団子を食わせてくれて。
「きり丸が、ここにいてくれって言ってくれました。土井先生は、化け物みたいな力を持った私を怖くないと言ってくれました。こんな怪しくて、物知らずな私の傍にいてくれるって、言ってくれました。っ、あ、ありがとう、て、言ってくれました……!」
震えた掠れ声に泣いているのかと思ったが、俯いたリサから水滴が零れ落ちることなくて。代わりに細い指が砂利の中に跡を残していく。
「、だから、私は、ここに、いなきゃならないんです……きり丸がいなくならないでって言ってくれたから、土井先生が信じてるって言ってくれたから……っ、私は、ここに、いたいです……!」
お願いします。リサが訴える。
額を地面に擦りつけて。砂利が額を傷付けることなどお構いなしに。
「気味が悪いのなら姿が見られないようにします。関わるなと言うのなら近付きません。仕事はちゃんとします。私に出来ることなら何だってします。ここにいたいんです。約束を、守りたいんです」
だから、お願いします。リサは懇願する。
顔を上げることなく、文次郎たちの気持ちなど知りもしないで。ただひたすらに懇願する。
「ここに、いさせてください……!!」
気付いているだろうか。
他の六年生たちが外に出てきたことに。
気付いているだろうか。
屋根の上に、木の上に、学園の教職員たちが姿を消して見ていることに。
知っているだろうか。
”先輩! お願いします!! リサさんを信じてあげてください!!”
”僕も!”
”私からもお願いします!”
きり丸が、しんべえが、乱太郎が。
昨日、リサの為に文次郎たちに頭を下げに来たことを。
「――何を勘違いしているのか知らんが、」
ふいと顔を向けて文次郎は腕を組んだ。
傍らでふと笑みを溢す仙蔵が憎らしい。
「俺はアンタを追い出そうなんて思ってない」
「、ぇ……?」
「同感です。一体どうしてそんな話になったんです?」
ほんの少しばかりの揶揄を含めて仙蔵が尋ねると、顔を上げたリサがぽかんと間抜けな顔で文次郎たちを見上げた。額には砂がこびり付いていて、赤も滲んでいる。そんなに強く擦りつけていたのかと文次郎は呆れ顔でリサを見下ろし伊作の名を呼んだ。
「手当てしてやれ」
「うん。リサさん、医務室行きましょう」
「え? いや、でも、だって……あれ、伊作くんいつから……」
「最初っからいましたよ」
苦笑混じりに伊作が返せば、どうやら気付いていなかったらしいリサは明らかに動揺しながら視線を泳がせた。その先で見付けた小平太、長次、留三郎の姿に更に狼狽する。
「………もそもそ」
「や、そんな……だって、その……」
戸惑いながら言葉を返すリサはもそもそと呟く長次の声が聞こえたらしい。何て聴力だ。
長次の隣で小平太が「長次、何か言ったの?」なんて問いかけている。自分も聞きたいが、間抜け面のまま呆然としているこの新しい事務員とちゃんと話をするのが先決だ。仙蔵もそう思ったのか、リサの元に歩み寄るとその長い黒髪を揺らしながら目の前に跪いた。
「リサさん」
「、は、い」
「これから、大変ですよ」
「え?」
何が? と首を傾げるリサに仙蔵は浮かべた笑みを深めてそっと囁いた。
「逃げた昨日の分も含めて、今日はきっちり付き合ってもらいますからね」
「………はい?」
「はいはい! 最初は私だぞ!!」
「馬鹿言え! 俺が先だ!!」
勢いよく手を挙げて訴える小平太に張り合って声を荒げれば、今度は留三郎が「いーや、俺だ!!」と更に張り合ってくる。
長次までもが「もそ」と呟きながら手を挙げると、ずっと苦笑していた伊作が「リサさんは怪我人なんだよ!」と声を荒げた。
「え、と……?」
「放課後、私たちの鍛錬に付き合ってもらいますよ」
勿論、事務員の仕事もちゃんと頑張ってくださいね。
そう続けた仙蔵は「その代わり」と、穏やかな笑みでリサに言った。
「ここの文字、教えてあげます」
「、いい、の? 私、ここにいても……?」
「良かったですね、リサさん!」
さ、医務室行きましょう。
呆然とするリサの手を取って立ち上がらせた伊作が、寝巻きのままリサの手を引いて歩き出す。お前裸足だけど良いのか? と声をかけようとした瞬間、伊作の姿がブレた――かと思ったら宙を舞ってリサの肩に担がれた。何が起こったのか分からない。ぱちぱちと目を瞬いて状況を確認すれば、リサの前には落とし穴。どうやら伊作が穴を踏み抜いて落ちそうだったのを、リサが咄嗟に引き寄せて肩に担いだらしい。
「うわー、びっくりしたね伊作くん」
「リサさん……僕、泣きそう………っ」
「え? ――あっ! ご、ごめん! つい……!」
肩の上で両手に顔を埋める伊作を慌てて下ろすリサはちっとも疲れているようには見えなくて。
悔しい。目の当たりにすると更に悔しい。とにかく悔しい。
「くっそー……! 俺も負けてらんねぇ!! ギンギンに鍛錬だあああぁぁ!!!」
朝の鍛錬を終えたばかりではあるけれど。
これから朝餉だけれど。
「は? おい文次郎! そろそろ食堂に行かないと――」
仙蔵の声を無視し、文次郎は十キロ算盤を手に走り出した。
我に返った頃には授業が始まる直前で、文次郎は昼餉の時間まで空きっ腹で授業を受けることとなる。