翌朝きり丸が目を覚ますと女はまだ眠っていた。
寝ぼけ眼を擦り大きな欠伸を一つした所で玄関の戸が開き、小脇に水の入った桶を抱えた半助が入ってくる。
「おはよう、きり丸」
「おはよーざいまーす」
ふわぁ。二度目目の欠伸をするきり丸を半助が優しい眼差しを向けてくる。目が合うと半助がこれまた優しく微笑むものだから、何だかくすぐったくて嬉しくて、きり丸もふにゃりと表情を緩めた。女の枕元に跪いた半助が手拭いを変えているのを見ていると聞こえる微かな呻き声。女が目を覚ました。
「あぁ、おはようございます」
「……はよ、ざ、ます」
掠れた声が半助に挨拶を返した。
「声が出るようになりましたね」
良かった。女の額に濡らした手拭いを置きながら半助が女に微笑みかけた。半助をぼんやりと見つめた女が不思議そうにこてんと首を傾げる。初めて見る瞳は青みがかっていて、まるで人形のようだと思った。
「何か食べた方がいい。きり丸、お前も顔を洗っておいで」
「はーい」
急いで身支度を終えて部屋に戻ると美味しそうな匂いがふわりと鼻腔を刺激した。囲炉裏を挟んで半助の向かいに腰を下ろすと雑炊たっぷりの碗を差し出してくれる。「いっただっきまーす!」と声を弾ませて食べ始めたきり丸を優しく見つめていた半助が、今度は自分の碗に雑炊を少しだけよそうと、立ち上がり女の枕元へと移動した。
「起き上がれますか?」
掠れた声で返事をした女がゆっくりと身体を起こそうとした。力が入らないのか、肘を床についた状態で停止してしまった身体を「失礼します」と断ってから手を差し伸べた半助が支えて起きるのを手伝うと、女はまた掠れた声でありがとうと礼を口にした。
「少しでも良いから食べてください」
碗を受け取った女がのろのろと雑炊を口へと運ぶのを、きり丸は雑炊を掻き込むフリをしながらじっと見つめていた。昨日より大分元気になったらしい女の髪は、陽の光を受けてきらきらと輝いているように見える。スゲェ。無意識に呟いたそれは女には届かなかったらしい。半助がちらりときり丸へ視線を送ったけれど、それには触れることなく「おかわりは?」と問いかけてくる。
「くださーい」
「ん。お前は今日からバイトか?」
「はい! でも先生は――いや、内職ならいけるか?」
病人がいるから外に出なければならないアルバイトは断られてしまうだろうが、室内で出来る内職なら。うん、いけるな。のろのろと雑炊を食べる女をちらりと見てきり丸は満足げに頷いた。
「せんせー! 内職のバイトお願いしまーっす!」
「ったく、お前は……そもそもお前がちゃんと自分で捌ききれる量だけを、」
「あ、大丈夫っすよ? その人にまで手伝わせたりしませんし」
「当たり前だ!」
大声で返されてきり丸はへらへらと頬を掻く。そうすれば半助は大きな溜息を漏らしながらもそれ以上は何も言わないことを知っているからだ。何だかんだ言って手伝ってくれる半助のおかげで、長期休暇はがっぽり稼ぐことが出来る。先生様々だ。
おかわりした雑炊を一気に掻っ込んだきり丸は「バイトー! バイトー!」と歌いながら着替え「じゃあ内職もらってきまーす!」と言い残し家を飛び出した。
「……――」
「ん?」
家を飛び出していったきり丸の背中を見送っていると、半助の耳が小さな掠れ声を拾った。女が何か言っていたらしい。聞き返すと、顔を上げた女が開いたままの戸口をぼんやり眺めながら繰り返した。
「げんき、ですねぇ」
「あぁ……すみません、具合が悪いのに騒がしくしてしまって」
元々は半助ときり丸が住まう家なのだから謝る必要は無いのだけれど。具合が悪い人間を放っておくわけにもいかないし、何だかんだこうして面倒を見てしまっているのだ。気持ちは半分ほどしか篭っていないが謝罪の言葉を口にすれば、女はゆるゆると首を振って碗の雑炊を啜った。
「ごちそうさまでした」
頭を下げた女が掠れ声で言う。どうやら予想以上に早く回復しそうだと安堵の息を漏らした半助は、顔を上げてこちらをじっと見つめる女に努めて優しく微笑みかけた。
「あの……あなたは、だれですか?」
「………どちらかと言うと、それはこっちの台詞かなー、と……」
拙い声で紡がれた問いかけに、半助は苦笑を漏らした。女は部屋の中を見回して、今度は「ここ、どこでしょう……?」と首を傾げる。
「一応、私ときり丸――さっきの少年ですが――二人で住んでます」
「………え、と……」
茶を差し出して困惑したような女に帰ってきたら家の中で倒れていたのだと教えてやれば、半分ほどしか開いていなかった目が数度瞬いた。そしてまた首を傾げる女。意味が分からない。
「……どうなってんだろ……」
独り言だったのだろう。ぽつりと漏らした声は、外から聞こえてきたきり丸の「持ってきましたー!」という元気な声に押されながらも確かに半助の耳へと届いたのだった。
内職をたんまりと持って帰ってきたきり丸は「じゃ、お願いしまーっす!」と言い置いて再び出て行ってしまった。背中には子守りを引き受けたのか赤ん坊が背負われていたから、その判断は間違っていない。
そもそも病人と同じ部屋で過ごしたのだから、子守りを引き受けたこと自体が間違っているのだけれど、きっときり丸は「だいじょーぶっすよ! たぶん!」なんて笑い飛ばすのだろう。どうかあの赤ん坊にうつりませんように。ツキンと痛んだ胃に手を当てながら半助は溜息を漏らした。
「リサです」
「は、え?」
唐突なそれに目を丸くしていれば、茶を啜りほう、と息を吐き出した女がもう一度口を開いて「名前、リサです」と自らの名前を口にした。風邪の所為かまだ少し嗄れているが、先程よりも遥かに流暢に話している。自分たちがいない間に勝手に侵入して熱を出してぶっ倒れていたことを考えるとその名前が本名かどうか怪しいが、半助はそんなことをおくびにも出さずに笑みを浮かべた。
「リサさん、ですね。名前が分かって安心しました。何と呼んだら良いか分からなかったものですから。私は土井半助といいます」
「ドイ=ハンスケ? え、と……下の名前がドイですか?」
「いや、下の名前は半助で……」
「つまり、ハンスケ=ドイですか?」
あぁ、どうしよう。胃が痛い。半助はひくりと頬を引き攣らせた。
話から察するに、おそらくこの女は南蛮辺りからやって来たのだろう。姓よりも先に下の名前を名乗るのだと聞いたことがあるし、リサの髪と目の色だってこの国では見たことのない異質な色だ。
問題は、その南蛮人がどうしてこの国の、この地方の、この町の、この家の中にいたのかということ。
「名前は、まぁ……はい。そうです。貴方からすれば、そういう呼び方になるんでしょう」
「はぁ……?」
「この国では、名前より先に姓を名乗るんですよ」
だから私は土井半助ですと生徒に聞かせるように教えてやれば、へぇ、と物珍しそうな顔でリサが頷いた。
「そういう国もあるんですねぇ」
「早速ですがリサさん、少しだけ話を聞かせて頂いても?」
「あ、はい。えっと、あ、そうだ。あの、面倒見てくださってありがとうございました」
湯呑を床に戻して居住まいを正したリサは、べたりと床に両手を付くと徐に頭を下げた。ゴン!!と大きな音が鳴り響く。呆然と何も言えずにいる半助を前に、リサは床に勢いよく頭突きしたままの状態で「このご恩は一生忘れません」と至極冷静に続けている。
「、あ、の……ちょ、ちょっと、待ってください」
「はい?」
「いや、と、取り敢えず、額を……」
顔を上げたリサの額は、あんなにも大きな音を上げたというのに傷一つない。ほんのり色づいた程度だということは、音の割にはダメージが少なかったのだろう。リサが顔を上げたことで見えた床に小さな亀裂が入っているのはおそらく気の所為だ。亀裂に見えるだけのただの汚れだ。あとで掃除をしなければ。
「何もそこまで頭を下げなくても……」
「人様にお礼を言う時はこうするのだと聞いて」
「は、はは……」
一体誰だ。そんなことを教えたのは。頬を引き攣らせながら半助は乾いた笑いを漏らした。
これでは土下座だ。しかもあんなに勢いよく頭突きをする必要などない。彼女に教えたという人物は一体何を考えているのだろうか。それとも、その人物も間違えて覚えているのだろうか。
「ごほん」
咳払いを一つ。この話は流させて頂くことにしよう。
そうでなければ話が進まない気がする上に、胃の痛みが強くなりそうだ。
「リサさんはどちらからいらしたんですか?」
「ヨークシンシティです」
「よーくしんしてぃ?」
「はい。オークションがあったでしょう? そこに私も参加してて、」
おーくしょんとは何だろうか――そんな疑問が顔に出ていたのかもしれない。半助を見たリサが言葉を切った。無言のまま見つめ合うこと数分。先に口を開いたのはリサだった。心なしか頬が引き攣っているように見える。
「あの……まさか、知らない、とか?」
「………すみません」
「え、や、だ、だって、世界最大のオークションですよ? ヨ、ヨークシンシティは知ってますよね? ヨルビアン大陸の!」
必死な形相で問い詰めるリサに、半助は乾いた笑いしか返せない。
あぁ、嫌だ。どうしよう。物凄く嫌な予感がする。
「そ、そう言えばオークションに出ましたね! 幻影旅団! 出品されたもの殆ど盗んでいっちゃって、本当あいつらふざけんなって話ですよね! 実は私今年の試験で見事ハンターになりまして。お祝いに自分に何か一つくらいご褒美を買っちゃおうかなーなんて思ってたのに結局何も買えなくて、」
「リサさん、」
「それでムカついたから知り合いの変態ピエロに嫌がらせメールとかしまくったんですよ。一字ずつ「くたばれ」って送信したり電話ワンコールで切ったり、あ、あと――」
「リサさん」
動揺を全く隠せていないリサがペラペラと話を続けているが、悲しいことに半助にはそれのどれ一つとして理解出来ない。ゲンエイリョダンという誰かが盗みを働いたということと、リサがはんたぁというものになったということだけは分かったが、そもそもゲンエイリョダンという人物もはんたぁというものも分からない。
目を泳がせてペラペラと話し続けるリサは、どれか一つでも半助が知っているものがあれば、と思ったのだろうか。一度呼びかけてみたが無視され、話は更に続く。けれどそれも半助には分からない。取り敢えずリサという人間に対する印象が変わったくらいだ。
再度強く彼女の名前を呼べば、びくりと肩を揺らしたリサは情けなく眉を下げ、肩まで落として黙り込んだ。
「リサさん」
「……はい」
今にも泣きそうな顔で返事をするリサに、半助は自分も泣きたい気持ちになりながら小さな小さな声で提案した。
「……取り敢えず、確認、しましょうか」
と。