04


零れた溜息が静かな厨房に広がる。
ERROR達は、今頃どうしているのだろう。本当ならば私も一緒に行くべきだったのに、逃げてしまった。
甲板から遠目に見た島が、何となく見覚えのあるように思えて。怖くて。気分が悪いと偽って船に残った。
確かめなければならなかったはずだ。私は逃げずに上陸して、自分の目で確かめるべきだった。

それなのに。

「弱い、なぁ……」

この船に乗って、弱くなってしまったことは気付いていた。大切な人がたくさん増えて、毎日が幸せで、泣きたくなるほどに幸せで。けど、ここまでだなんて思ってなかった。見えないフリをしてる間に、こんなにも弱くなってしまっただなんて。
気晴らしに厨房の掃除とか調理器具の手入れを始めたけど、気分が乗らないからか思うように捗らない。
あぁ、私、ダメだなぁ……。

「リサ」

コツン、という足音に続いて聞こえたマルコさんの声。振り返れば、心配そうにこちらを見るマルコさんが戸口に立っていた。

「大丈夫なのかい?」

具合が悪いことに対するそれじゃないことは分かる。だって、マルコさんは信じていなかったはずだ。それでも私を気遣って自分も船に残ってくれた。島に降りたいだろうに、私の所為でここに縛り付けてしまっている。

「はい。すみません、心配かけちゃって……私は大丈夫ですから、マルコさんも島に行ってきたらどうですか?」

皮剥きをする時に使う空樽に腰を下ろしたマルコさんにそう促せば、マルコさんは困ったように眉を下げて微笑んだ。

「いや……特別買いてぇモンもねぇしな」
「皆は酒場に行ったみたいですよ?」
「――だったら尚更だよい。たまには静かに呑みてぇんだ」

譲らないマルコさんに「そうですか」と呟いて視線を手元へと戻す。
いつもだったら、マルコさんは「そうだねい、じゃあ行って来るとするよい」なんて言ってここを去っていたはずだ。ううん、最初に島に降りてきたらどうかと尋ねた時にそうしてたはずだ。
けど、今のマルコさんは違う。きっと、私が何て言ってもここを離れようとはしないんだろう。具合が悪くないってことも、皆に島に行って来て良いと言ったくせに、本当は一人になりたくないと思ってることも、全部気付いてるのかもしれない。

「………なぁ、リサ」

かけられた声はいつも通りの優しいものなのに、真剣な響きを孕んでいる。何を言おうとしているのか、気付かないわけにはいかなかった。けど、まだ。もう少しだけ。そうやって逃げようとしている自分に吐き気がした。
沈黙が厨房を支配する。返事をすることも、食器洗いを続けることも出来ない私は何て臆病者なんだろう。

「………何でもねぇ、悪ィな」

先に折れたのはマルコさんで、その声には何処か諦めの色がある。まだ駄目なのかい。そう言われた気がした。

「………マルコさん」
「ん?」
「………いま、空いてますか?」
「ご覧の通りだよい」

両手を広げて微笑むマルコさんに背を向けたままほんの僅か口端を上げた。手を洗って振り返れば、マルコさんは優しい表情で私を見つめていてくれた。
逃げるな。頭の片隅でもう一人の私が静かに叫ぶ。それなのに、身体は逃げ道を求めて勝手にマルコさんへと向かっていく。情けない顔を見られたくなくて俯いたままマルコさんの前まで移動すると、気遣わしげに私を呼ぶマルコさんの手が伸びてきたのが見えた。無意識にその手に自分の手を伸ばして指先を握れば、もう片方の手が慰めるように私の手に重なった。

「……ご迷惑じゃなければ、なんですけど……」
「ん?」

聞き返すマルコさんの声は優しい。相変わらず訴えてくる「逃げるな」という声を無視して、私の口は勝手に逃げる為の言葉を紡いだ。

「……少しだけ、甘やかしてもらっても良いですか?」

マルコさんが息を呑んだのが分かる。逃げてしまったことを気付かれたのかもしれない。甘ったれるなって突き放されるかもしれないと思った途端、恐怖が全身を襲う。怖い。唇を噛み締めていると、さっきと変わらない優しい声が耳に届いた。

「勿論」

顔を上げれば、相変わらず優しい顔のマルコさんが私を見上げている。
あぁ、この人は……何でこんなにも優しいんだろう。
泣きそうになるのを必死に堪えて一歩足を踏み出せば、マルコさんの腕が動いて私の足を攫った。

「わっ、」

浮遊感に焦り、咄嗟に目の前にあるシャツを掴めば、すぐ傍にあるマルコさんの顔。膝の上で横抱きにされるという恥ずかしい格好に慌てるけど、マルコさんは相変わらず楽しそうに笑うだけで下ろしてくれない。

「さ、さすがに恥ずかしいです!」
「誰も見てねぇから大丈夫だよい」
「そ、そういう問題じゃないと……」

それ以上言うなとでもいうように、マルコさんの腕に力が篭る。羞恥心は消えなくて、でも下ろしてくれそうにもないから諦めて身体の力を抜けば、マルコさんの腕の力も弱まった。丁度そこにある肩口に頭を預ければ、あやすようにマルコさんの指が髪を梳いていく。

「………重く、ないですか」
「大丈夫だよい」
「……足、痺れちゃいますよ」
「んなヤワじゃねぇから」
「………マルコさん」
「ん?」
「………ちょっとだけ、ですから」

シャツを握る手に力を篭めれば、数拍の間の後に「あぁ」と優しい声が返ってくる。言葉がなくなると厨房はまた静かになって、それが何だか落ち着かなくて、でもマルコさんの体温が心地良くて。

「………疲れちまったかい」

暫く経ってマルコさんがそう問いかける。それに少しだけと答えれば、髪を梳いていた手が後頭部に触れてぎこちなく頭を撫でてくれた。

「リサは一人で抱え込み過ぎなんだよい」
「……嫌な予感がするんです」
「嫌な予感?」
「……ちょっと、怖くて」

そんな事を言ったってマルコさんが困るだけだ。分かっているのに、甘やかしてもらうことに慣れつつある私はいとも簡単に弱音を吐き出す。そうやって、またマルコさんを縛ろうとしている自分が情けない。

「俺が傍にいるよい」

そうやって優しい言葉をかけてくれるから。私はまたマルコさんに頼ってしまうのに。
何も話せないのに。話す勇気すら持てないのに。

「……ごめん、なさい」

甘えてごめんなさい。弱くてごめんなさい。何も言えなくてごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。謝っても謝っても足りない。全然足りない。
跡が残るくらい強くシャツを握った手は小さく震えていて、それに気付いたマルコさんの手が私の手に重なった。

「大丈夫だよい。何があったって、俺が――」
「リサちゃん!!」

マルコさんの言葉は、勢いよく戸を開けて入って来たサッチさんの大声に掻き消された。同時に入って来たタミちゃんが「何しとんじゃアホマルコーーーーッ!!!」なんて怒りを露に叫ぶ。慌ててマルコさんの膝から下りると、マルコさんが舌打ちをするのが聞こえた気がしたけど、気の所為かな……?

「もう戻って来たのかい」

何処か不機嫌そうなマルコさんの声に怯むことなく私達に駆け寄ってきたサッチさんの表情は硬い。いつもニコニコと笑っているサッチさんがこんなに怖い顔をしているということは、ただ事じゃない。マルコさんもそう感じ取ったのか、静かに次の言葉を待った。

「大変だ……! ERRORちゃんが……!!」

逃げるな。
何処にも逃げられないんだから。
頭の片隅で、もう一人の私がそう囁いた。