05


まるで意思を持っているようだとライアは思った。
自分の目はどうかしてしまったのだろうか。見慣れたヘンリエッタの姿が紫色の海へと引きずり込まれていくその様がコマ送りで見えるのだ。紫の水が触れた皮膚が嫌な音を立てて爛れるその様を、苦痛と恐怖に染まるその顔を、必死に伸ばされた手を、助けてと叫ぶ声が波に攫われたのを、ライアは指一本動かすことも出来ないままただただ見ていた。

「ヘンリエッタ!!」

叫んだのは誰だっただろうか。
海の中へ押し込もうと襲いかかる波に抗い、必死に手を伸ばし助けを請うヘンリエッタを呆然と見下ろしながら、ライアは口内に溜まった唾液を飲み込んだ。

こんな風に。
あの女を、こんな風に。

そう思っていたのに、海に落ちたのはリサではない。ライアの代わりに実行するはずだった駒だ。

使えない。

無意識に呟いた声を拾った人間がいなかったことは、ライアにとって幸運なことだっただろう。

「どけっ!!」

突然強い衝撃を受けてライアは甲板に倒れ込んだ。勢いよく倒れた所為で手のひらと膝を擦りむいてしまい、痛みに顔を歪めるが突き飛ばした相手からの謝罪の言葉はない。何なのよ!と歪めた顔を振り向かせたライアの目に映ったのは、今まさに毒の海へと身を投じようと欄干を飛び越えたリサの姿だった。

「、っは、」

うそ、でしょう?緩む頬を隠すことも出来ないままライアは身体を起こして海を覗き込んだ。
波に抗いながらリサがヘンリエッタの元へ泳いでいる。防護服を着ていないのに自殺行為だ。何て馬鹿、とライアは嘲笑を浮かべた。

あぁ、何だ。最初からこうすれば良かったのか。
それなら。どうせなら、あいつらの内の誰かが落ちてくれれば良かったのに。
使い勝手の良い子だったのに。残念。

「目を開けちゃ駄目よ!!」

海へ浮き輪を放り投げながらレイアが叫ぶ。
もっと右、違う、そっちじゃない――レイアの指示通りに泳ぎ手探りで浮き輪を探すリサはその腕に意識のないヘンリエッタを抱えていた。本当、馬鹿。心の内で吐き捨てた時、リサの手が浮き輪を掴んだのが見えた。あぁ、残念。あのまま死ねば良いのに。毒に塗れたロープを躊躇なく引き上げるジーンたちまでもが馬鹿馬鹿しく見える。アイツらも飛び込んでしまえば良かったのに。

引き上げられた二人は間髪入れずに用意されていた水を頭からかけられた。サティとジーンがリサを、ナンシーとテレサがヘンリエッタの服を引き千切り、絶えずかけられる水で毒を洗い流していく。ずるんと剥けた皮膚の下の肉が目に入りライアは舌打ちと共に目を逸した。

丁寧に毒水を洗い流された二人はすぐさま医務室へと運ばれた。毒水に直に触れたジーンたちも後に続いて立ち去ると、甲板には何とも言えない空気が漂い始める。あぁ、早くこの海域を抜けてくれれば良いのに。さっさと指示を出してよ、と責めるような視線をマルコに向けると、ばちりと目が合った。ライアは思わず笑みを浮かべた。別れを告げられてから――違う、本当はもっと前から。マルコがライアを見ることなんてなかったからだ。いつだって視線を向けてから振り向いていたから。ついこの間まではマルコからの視線だって感じていたのに。

あぁ、そう。あの女の所為で。
アイツらの所為で。

でも、もういい。だってマルコが見てくれた。向こうから先に見てくれた。
浮かれるライアは気付かなかった。マルコがライアを見る目がどんな色を映していたのかを。

「――何で、助けなかったんだよ」

不意に聞こえた声が誰のものかは分からない。どうせ地位も実力も大したことのないクルーだろう、なんて考えながら振り向けば、こちらをじとりと睨み付けるクルーの姿があった。話したことがあるような、ないような。覚えていない。どうだって良いのだ、その程度の奴らなんて興味がないのだから。

「なぁに?」
「何で笑ってんだよ」

さっきと同じ声。やはりこのクルーだったか、とライアは僅かに目を細めた。声音から分かる敵意に笑顔を返すほど優しい性格などしていない。その他大勢のクルーの分際で私に楯突くなんて、と目を眇めてやれば、クルーの顔が醜く歪んだ。

「お前ならすぐに助けられただろうが……!」
「………ヘンリエッタのこと?」
「他に誰がいんだよ! 何でぼーっと突っ立ってたんだよ!! 助けてって言ってたじゃねぇか!!」

あぁ、面倒臭い。何なのこいつ。そんな思いを込めて吐き出した溜息に、向けられる敵意が増した気がした。え?と思って周囲を見回せば、甲板のあちこちから咎めるような視線が向けられている。

「、な、何なのよ……」

意味が分からない。
何でそんな目を向けられなければならないのか、ちっとも分からない。

「何で家族を見捨てたんだ?」
「っ、か、勝手に落ちたんじゃない!」
「何で助けなかったかって聞いてんだよ!」

咄嗟に言い返した言葉に激昂したクルーがライアに掴みかかり詰め寄ってきた。痛い、苦しい、気持ち悪い。
帆をたたむ為にロープを触っていた手からはタールの臭いがする。あぁ、臭い。汚い。服が汚れたらどうしてくれるんだとキッと睨みつけながら手を振り払ったライアは、クルーから逃げるように一歩、二歩と後退った。

「何なのよ! 毒の海に飛び込むなんて馬鹿な真似、出来るわけないでしょう!!? アンタたちだってそうじゃない!」
「落ちる前にお前が手を伸ばせば助かっただろうが!!」
「しょうがないじゃない!! 海が荒れてるのよ!? 私にまで波がかかるじゃない!!」

今だって荒れているというのに。絶えず揺れる船は踏ん張らなければあっという間に船の外に放り出されてしまいそうだ。あぁ、もう。最悪だ。早く中に入ってお風呂に行きたい。気持ち悪い、煩い、本当に煩い。コイツも落ちてしまえば良かったのに。そんなライアの気持ちが伝わってしまったのだろう。

「何がしょうがねぇってんだ!! この海で生きるって決めた時に覚悟なんざ出来てるだろ!? それを、臆病風に吹かれやがって……!!」

怒りで顔を赤く染めるクルーが、どうしてこんなに怒っているのかライアには分からない。分かりたくもない。
口を開けば家族、家族。覚悟だの何だのと、本当に愚かだとしか思えない。

「な、によ……私に死ねって言うの!!? 何で私があんなのの道連れになんなきゃなんないのよ!! バッカじゃないの!!?」
「あんなの、って……家族、じゃねぇか」
「っ、」

背後から聞こえた静かな声にびくりと身体が震えた。しまったと思った。おそるおそる振り返ると、マルコが。

「、ぁ」

マルコが。
家族を大事に想う、マルコが。

「…………」
「、あ……マルコ、これは、その………ち、違うのよ!」

慌てて首を振りながらライアはマルコに向けて手を伸ばした。どうしよう、早く、早く誤魔化さなければ。
縋るようにシャツを掴もうとした手は、けれどマルコに触れることなく虚空を掴んだ。スッと身をずらしたマルコはもうライアを見ていない。目を合わせてくれない。さっきは見てくれたのに。あぁ、どうして。何で。

「………医務室、行ってくるよい」

ビスタとジョズに後を頼むと言い残して、マルコは行ってしまった。

ライアを振り返ることをせずに。
ライアに声をかけることをせずに。

また、あの女の所へ行ってしまった。

「――っ、」

また、あの女が。

リサへの怒りで顔を歪めたライアは気付かない。
甲板に残った者たちから向けられる、どこまでも冷めた視線に。