今しかない。
どくん、どくんと心臓の音が耳のすぐ傍に聞こえた。
どんどん早くなっていくその音に急かされるように足を速め、ライアはそっと甲板の片隅へと移動する。じっと息を潜めて様子を窺っていると、目的の人物が吹き荒れる嵐に耐えるように顔を歪めながらこちらの方へ走ってくるのが見えた。
「とっとと抜けちまえよい!!」
遠くからきこえる恋人――正確には元恋人だ――の声に男たちの野太い声が応えるように吠える。
「波に気を付けろ!! かぶったらシャレになんねぇからな!」
そう遠くない場所から飛んでくる声にライアは鼻を鳴らした。誰がお前の命令なんか聞くものか。
木箱の陰に隠れ、ライアはその時がやって来るのをじっと待ち続けた。
その伝達を受けたのは昨日のことだった。
何でも有りのグランドライン後半の海――新世界。広大なこの海には、驚くことに毒の海なんてものも存在するらしい。数年前に通った時にはそんなものなかったと誰かが話しているのが聞こえた。
「まぁ、何でも有りだもんね」
「何かあったんでしょ、別にもう驚くことじゃないわよ」
背後で取り巻き連中が囁き合う声が聞こえたその時、クルーたちの間にざわめきが広まった。
「何? 何て言ったの?」
「明日そこ通るんだってよ!」
未知の遭遇に思いを馳せているのだろうか、近くにいたクルーが目を輝かせながら教えてくれた。
くだらない。そんな危険な海域を通ってどうするというのだ。興味を無くしたライアはまだ隊長からの話が終わっていないというのにその場を後にした。どうせ取り巻き連中が聞くのだ、あとで聞けばいい。
数分後、部屋に戻ってきたヘンリエッタたちから詳細を聞いたライアは、彼女たちの持ってきた情報に目を輝かせた。
「毒の海域に嵐、最高じゃない」
「どこが! ねぇ、明日は外に出るの止めよう?」
「何言ってるの!」
不安げな顔をするヘンリエッタを叱りつけ、ライアは企みを乗せた唇で弧を描く。
最高だ。最高のシチュエーションだ。
「……明日よ」
「、え?」
訝しむ彼女たちに、ライアは声を潜めてそっと囁いた。
「あの女を、海に落とすの」
息を呑む取り巻きなどお構いなしに、ライアは明日へ思いを馳せて高らかに笑った。
「――ねぇ……本当にやるの?」
隣のヘンリエッタが情けない声で尋ねてくる。ライアは舌打ちをした。ついでに一睨み利かせてやれば、びくりと身を揺らしたヘンリエッタは渋々といった様子で口を噤む。最初からそうすれば良いのだ。鼻を鳴らしてライアはそっと辺りの様子を窺った。
荒波が船体を揺らし高波が甲板を襲う。モビー・ディック号が大きくて良かった。あんなにも高い波が襲っているというのに、実際に甲板に辿り着く海水の量は微々たるものだ。とは言え、これは普通の海水ではない。紫色のそれは板張りの床の上でしゅわしゅわと恐ろしい煙を上げている。まさか、木まで溶かしてしまうとでもいうのだろうか?いや、そんなはずはない。木まで溶かしてしまうのであれば、この船は確実に沈んでしまうではないか。
「おい! そこ!! ちゃんと防護服着ろっつってんだろうが!!」
飛んできた声にライアたちはびくりと身体を跳ねさせた。おそるおそる顔を出してみると、少し離れたところでリサがシャツ姿のクルーに怒鳴りつけているのが見える。
防護服といっても、毒を防ぐ目的のものではない。倉庫に眠っていた潜水服をアレンジして作っただけの簡単な防護服だ。全身を護ってはくれるが、動きづらい。見た目にも暑苦しいそれはクルーたちのお気に召さなかったらしく、結局途中で脱ぎ捨ててしまっているクルーたちが殆どだ。そもそも、着ろと叱りつけるリサ本人が着てないのだから説得力など皆無である。
木箱の陰に隠れるのに、場所を取る防護服など着れるはずもない。当然ながら防護服を着ていないライアたちは、自分たちの持っていた合羽で何とか身を護っている状態だ。今はまだ良いが、風向きが変わればあっという間にライアたちに毒の波飛沫が襲い来ることだろう。
出来るだけ早く実行してしまいたい。ライアの中には微かな焦りが生まれていた。
「ねぇ、ライア……やっぱり止めよう? 無理よ……」
「るっさいわね! やるったらやるのよ!!」
怒りのままに声を荒げるが、あくまでも囁き声で。もし自分たちがここにいることに気付かれてしまえば、おそらくその企みに気付く人間がいるはずだ。それだけは避けなければならない。あの女をこの世から消し去りたいのに、下手すれば処刑されてしまうのは自分たちの方になってしまう。
「覚悟決めなさいよ。これが成功すれば、あの女は消える」
そうすれば、なれるのだ。二番隊の隊長に。
マルコは戻ってくるだろう。
あの女さえ消してしまえば、取り巻きたちなんてどうとでもなる。気持ち悪いくらい依存している奴らだ、あの女が死ねば面白いくらい発狂することだろう。あいつらを抑え込んでいる隙に自分が新たな隊長になってしまえば、その後はどうとでも出来る。
「大丈夫、大丈夫よ」
自らに言い聞かせ、ライアは冥い笑みを浮かべた。
木箱の向こうから聞こえてくる標的の声もこれで聞き納め――そう、今日あの女は死ぬのだ。
「私の邪魔をするからよ」
あと少し。
あと少しで願いが叶うのだ。
息を潜めて木箱の陰からそっと甲板の様子を窺い、次の瞬間、ライアは鋭い声を上げた。
「――今よ!」
気持ちが昂ぶって仕方ない。声を潜めることが出来たのは奇跡だ。
ライアの合図でヘンリエッタたちが木箱の陰から飛び出し、独りきりになったリサの背後へと忍び寄る。そして、一瞬の隙をついて海へと突き飛ばす――それがライアの立てた計画だった。
余りにも杜撰なその計画は、ライアの頭の中では見事に成功していた。実際に行ったとして、結果はどうだったのだろうか。
「きゃあぁっ……!!」
「っ、あ……!?」
計画通りならば、彼女たちは背後から飛び出すはずだった。
けれど代わりに聞こえたのは取り巻きたちの悲鳴。何事かと振り返ったライアの視線の先――毒々しい色の海水が、まるで狙い定めたかのようにヘンリエッタの身体を海の中へと引きずり込んでいくのが見えた。