メルエル島を出航してからひと月。モビー・ディック号は順調に航海を続けていた。
けれどそれは、あくまでも次の島に向けての船の進み具合の事を指すもので、モビー・ディック内はピリピリとした空気に包まれていた。
ほんのひと月前までも、モビー・ディック号内は一番隊隊長と二番隊隊長によって淀んだ空気に包まれていたが、それはひと月前に辿り着いた島で起きた事件のおかげで僅かずつではあるが、確実に解消されつつある。現在、モビー・ディック号内の空気を微妙なものにしているのは前回と同じく一番隊隊長のマルコ、そしてもう一人は二番隊隊長ではなくその部下であり、マルコの恋人でもあるライアだった。
その日、二番隊隊長のリサは数日前の敵襲に於いての報告書を作成してマルコの部屋を訪れていた。部屋の前に立ち、戸をノックしようと手を挙げた所でその動きはピタリと止まっている。部屋の中から怒鳴り声が聞こえてきたからだ。
「だから何度も言ってるじゃねぇかよい! 仕事中なんだ! 邪魔すんなら出てってくれ!」
「今まではそんな事言わなかったわ!」
「今まではこんな風に邪魔しなかったじゃねぇか!」
「だって……っ、最近のマルコおかしいわよ! 前はもっと私に優しかったわ! それなのに……っ、やっぱり浮気してるんでしょう!?」
「だから……っ、してねェっつってんじゃねぇか! いい加減にしろよい!」
今まさにノックをしようと手を挙げた状態でリサは硬直していた。扉一枚隔てた先には、立ち入りたいとは思えない――むしろ今すぐ逃げ出したい――ドロドロの世界が広がっている。けれど、この報告書の期限は今日の昼までだ。気配を絶ちながらそっと腕時計を確認すると、悲しいことにあと数分で期限が切れる。そんな事になれば、扉の向こうで恋人と怒鳴り合っている男の全ての鬱憤がこちらに向かってくる事間違いなしだ。それだけは避けたい。しかし、今この瞬間に部屋に立ち入ったとしても結果は同じである事は目に見えているのだから、躊躇ってしまうのも無理はない。
キョロキョロと左右を見回すと、リサの背後を通っていくクルー達がジェスチャーで「頑張れ!」と励ましてくれる。しかし頑張れるはずもない。こみ上げる舌打ちを何とか飲み込んで大きく息を吸い、意を決してノックをしようと腕に僅かに力を篭めたその時、廊下の向こうから救世主がやって来た。
「お、何だリサ! お前もギリギリかー」
報告書をヒラヒラさせながらサッチがリサの元にやって来る。シー、と人差し指を当ててから扉を指すと、サッチは首を傾げたがすぐにピンときたようで苦笑しながらリサの隣に並んだ。部屋の中からは相変わらずの怒声が聞こえてくる。先程から全く同じ内容を何度も何度も繰り返しているのだが、いい加減飽きないのだろうか。そんな事を考えながらリサは困り果てた顔でサッチを見上げた。
「なーにビビッてんだって。そろそろ助けに入ってやろうぜ」
軽い調子でサッチがコココンとリズミカルにノックをする。十分近くここに立ち、今尚出来なかったノックをいとも簡単にやってみせたサッチは、そのまま扉を開けた。
「マルコー、報告書持って来たぞー」
勇者だ。扉の陰に隠れていたリサは心の中で「サッチ凄ェ……!!」と讃えながらサッチの後に続こうとした。
けれど、それは敵わなかった。
「こんな時に入って来るんじゃねぇよい!!」
「今大事な話してんのよ!!」
マルコとライアの二人から同時に怒鳴り付けられ、おまけにマルコに強烈な蹴りを食らったサッチは部屋の外に吹き飛ばされてしまったからだ。扉の陰に隠れたままだったリサは全速力で部屋から離れて危機を回避しつつ様子を窺う。マルコの部屋の戸が乱暴に閉められ、再び中から怒声が響いてくるのが聞こえた。
「……勇者じゃなくて愚者だったか」
ポツリと零しながらそろそろと部屋の前に戻ると、リサは報告書をそっと扉の脇に置いた。近くに落ちていたサッチの報告書も重ねると、重石代わりに腕時計を外して報告書の上に置いてから立ち上がりサッチの元へ歩み寄った。
「おーい、生きてるかー……?」
「………なん、とか……」
折角綺麗に決まっていたリーゼントは見るも無残なものになっている。サッチの顔は更に酷い事になっているのだが、それはいつもの事だからとリサは気にせずサッチに手を差し伸べた。
「ほれ、戻ろうぜ」
「うぅ……おれ、わるいの………?」
薄っすらと涙を浮かべるサッチに苦笑を返し、立ち上がるのを手伝うと肩を貸してやりながらサッチの部屋へと向かった。
ベッドに座らせてやると、未だに呻いているサッチがリサの腹に腕を回してしがみ付く。
「もうイヤ! 俺悪くないのに!」
「いや、空気は読もうぜ」
「こんなドロドロの空気もうイヤ!」
「まぁ、そりゃ確かに嫌だけど……」
「こんなドロドロの空気をどうやって読み解けって言うの! サッチ君泣いちゃう!!」
「取り敢えず気色悪ィよ」
ポンポンとサッチの背を叩いてやると、サッチは唇を尖らせながらリサをベッドの中へと引きずり込んだ。逆らう事なくベッドに寝転がったリサは、未だにしがみ付いて放してくれないサッチの崩れたリーゼントを呆れたように見つめた。
「はいはい、サッチは悪くねぇよ。悪いのはアイツらだ」
「だろ!? だろ!!? 普通なら、期限守ったんだから褒められるはずだろ!?」
「普通なら褒められねェよ。期限守んのが当然なんだから」
「リサちゃん冷たい! お兄ちゃん泣いちゃう!!」
「気色悪ィ」
腹筋を使って起き上がると、サッチは未だ不満を吐き足りないのか、再びリサの腹に腕を回してしがみ付いた。そんなサッチを呆れたように見下ろしたリサは少し移動して自らの膝をトントンと叩く。サッチは当たり前のように膝を枕にして寝転んだ。
「あー、まだ痛ェ……」
「けど助かった。サンキューな」
「んァ?」
「ノックしようか迷ってたから。サッチが身代わりになってくれて物凄くホッとしてる」
そう言って笑えば、サッチは「酷ェ!」と叫んでからグリグリとリサの膝に頭を擦りつけた。「くすぐってェよ」と言うとより一層強く擦り付けられる。声を上げて笑ったリサはサッチのぐしゃぐしゃの髪を鷲掴むと強く引っ張り上げた。
「ちょ、止めて……! 抜ける……!!」
「そろそろこの髪型も飽きただろ? いっそ、思い切って坊主にしてみるなんてどうだ?」
「そんなの嫌あああぁぁぁっ!!!」
叫び「助けて!」と懇願するサッチに再び声を上げて笑いながら手を放すと、指で頭皮をマッサージしながらサッチがリサを睨む。
「ったくよォ……もうちょっと優しくしろってんだよ」
「あははっ! サッチ頭変だぞ」
「笑うトコじゃねぇよ!」
目を強く見開いて訴えるサッチにリサは「苦しい……!」と身を捩りヒーヒーと悲鳴を上げながら笑い続ける。鼻を鳴らしながら手櫛で適当に髪を整えたサッチは、未だ笑い続けるリサを見下ろして僅かに頬を緩めた。
「お前さ、前より笑うようになったな」
「ん? そうか?」
「嘘臭くなくなったし、前より楽しそうに笑うようになった」
首を傾げるリサの頭をぐしゃぐしゃと撫でながら、サッチは嬉しそうに笑う。
「俺、嬉しい」
「………そ、か」
乱れた髪を直しながら、リサは照れ臭そうにはにかんだ。
ほのぼのとした空気はけたたましいノックによって一瞬にして葬り去られた。二人が驚いて扉を見つめるのと扉が開くのはほぼ同時だった。了承も得ずに扉を開けたマルコは、ベッドの上で向かい合って座っているサッチとリサを見て僅かに目を見開いた後、すぐに顰め面に戻って中へと足を踏み入れた。無言でリサの方へ伸びてきたマルコの手にはリサの腕時計。
「さっきは悪かったよい」
苦々しい顔で呟くマルコにサッチは「痛かったんだぞ!!」と不満を露にする。腕時計を受け取りながら、リサはチラとマルコを見上げた。その表情を見るに、どうやら和解はしていないようだ。
「なぁ、お前大丈夫か?」
「あ?」
サッチの文句に「あーはいはい、悪かったよい」と適当に返していたマルコがリサを見下ろす。
「仕事、捗ってねェんだろ? また手伝うか?」
「………いや、大丈夫だ」
「あのなァ、そんなツラで何言って――」
「お前に手伝わせると煩ェんだよい」
苦々しい顔で告げるマルコに合点がいったリサは難しい顔で頭を掻いた。
「つーか、アイツは何を疑ってんだか」
「知りたくもねェよい」
何が嬉しくて仲を疑われなければならないのか。いくら昔ほど険悪でなくなったとは言え、互いに異性として見るには無理がありすぎる。不可能だと断言できる。それをよく知っているだろうに、ライアは一体何を考えているのか。
「束縛強ェってのも困りモンだな」
「そーなのよ、リサちゃん。分かってくれるか? 女の嫉妬と束縛ってホンット怖くて――」
「え、サッチお前、束縛してくれる女がいたの?」
「煩ェよ!!」
目を丸くしてわざとらしく驚いてみせるリサにサッチが真っ赤な顔で叫んだ。それからグッと拳を握り込んで苦痛に耐えるかのように唇を噛み締めてみせる。
「あんなに思わせぶりな態度取ってたくせに……!」
「あー、そういや先週の島で女といたよな」
「結局一度もヤらせてくれなかった……!! 散々貢がせたくせに……!!」
「ははっ、サッチだせェ」
「リサちゃあああぁぁん!!!」
「慰めて!」とリサの膝に顔を埋めるサッチに、リサは笑いながら頭を撫でてやった。
「はいはい、いーこいーこ」
「心が篭ってない!」
「お前、私が心篭めてそんな事したら気持ち悪ィだろうが」
苦笑しながらもサッチの背中を優しく叩いてやる。そんなサッチとリサを無言で眺めていたマルコは、靴音を鳴らして二人に背を向けると扉へと向かって歩きだした。
「確かに返したぞい」
「あ、待った。手伝うって」
「だから――」
「つまりよ、お前の部屋でやらなけりゃ良いんだろ? 自分の部屋でやっから。半分寄越せって」
振り返ったマルコが苦い顔でリサを見る。おそらく、それでも文句を言うであろうライアの事を考えているのだろう。けれど、仕事が終わらないのもまた事実であり、仕事に対して不真面目な態度を取らないマルコが選ぶ答えは一つだった。
「持ってくから部屋で待ってろい」
「おう」
了承の返事を背中に受けて部屋を出たマルコは、閉じた扉に背を預けて溜息を一つ零した。
「…………」
部屋の中から聞こえるリサとサッチの笑い声に僅かに顔を顰め、ガシガシと頭を掻く。
「……疲れてんのかもなァ」
背を離し、コキコキと首を鳴らしながらマルコは部屋へと戻って行った。