不満を露に出航準備を進めていくクルー達を監視していたマルコは、ふと視線を感じて振り返った。
「ライア?」
「………」
「どうしたんだよい」
「………別に」
そう答えるライアの眉間は皺が寄っていて、その声音もいつもより数倍低かった。思い当たる節が見当たらないマルコは首を傾げるが、出航準備をしている現在、ライア一人がこの場にいる事はおかしな事だと気付いたマルコは僅かに眉間に皺を寄せた。
「二番隊は倉庫で買出しした備品の整理してたんじゃねぇのかい?」
「………あの人だって、やってないわ」
「アイツは医務室で手当て受けてんだろい」
青雉との戦闘で傷を負っていた上に、レイアの父親にも散々痛め付けられていたのだ。そして更にマルコとの戦闘でリサの身体は既にボロボロだった。屋敷から船まで、よく歩けたものだと感心せずにはいられない。出航準備が始まるとリサはサッチによってすぐに医務室へ連行されてしまった。その際、白ひげやサッチに「ちったぁ手加減しやがれ」だの「嫁に行けなくなったらどうすんだ!」だのと文句を言われてしまったマルコは、あの状況でどうやって手加減をすれば良かったのだと反論したかったが、他でもない白ひげに言われてしまえば反論など出来るはずもなく、頬の腫れ上がったリサに小さな声で「……悪かった」と言わざるを得なかった。
副隊長であるレイアが代わりに指示を出す事になったが、今回の事でレイアが精神的に不安定になっていない保障もなく、マルコが二番隊に与えた仕事は最も簡単なものであった。
けれど、千六百人という大過ぎる人数を乗せているモビー・ディック号の食糧や備品等の数は決して少なくない。決められた場所に収めるという簡単な作業と言っても、全てを終わらせるまでそれなりに時間がかかるのだ。出航準備を始めてから一時間も経っていないこの時にライアがここにいるという事実が示す答えは一つしかない。
「仕事はちゃんとしろよい」
「……分かってるわよ」
明らかに気分を害した様子で去っていくライアの後ろ姿を見つめながら、自然と零れた溜息にマルコは僅かに眉を寄せた。と、その時背後から聞こえた喉を鳴らす音に振り向くと、そこには堂々と仕事をサボりながら煙管を加えているイゾウがいた。
「サボッてんじゃねぇよい」
「ちゃんと指示はしてきたさ」
鋭い睨みをひらりとかわしてマルコの横に並んだイゾウは、ライアが消えていった方向を顎で指してニヤリと口橋を上げた。
「随分と厳しい言葉を送ったもんだ」
「……別に普通の事しか言ってねぇだろい」
「昔のお前さんならな。ま、恋に溺れるお前さんを見るのも楽しいもんさ」
「…………」
イゾウの言葉にマルコは苦々しく顔を歪めて黙り込んだ。こうしてイゾウが言ってくるという事は、それ程だったのだろう。自覚はなかったが、言われてみれば確かに少し浮かれていたのかもしれない。ここ数ヶ月の己を振り返ってみたマルコはすぐに頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。有り得ない。頭の中に浮かんだアレは誰だ。ライアとヘラヘラ笑っていたアレは誰だ。
『テメェがテメェを見失ってどうすんだ!!』
数時間前にリサに吐き捨てた言葉が蘇りズキズキと胸が痛んだ。他人に言う前にまず自分にこそ投げつけなければならなかったのではなかろうか。蹲り頭を抱えるマルコを楽しげに見つめるイゾウが笑い続けている事が悔しくて堪らないが、何も言い返す事は出来ない。
「………はぁ、」
溜息を吐き出して立ち上がると、マルコはイゾウの肩に手を置いた。
「後は頼んだ」
「おいおい、俺に仕事押し付ける気か? 一番隊隊長さんが?」
「……頭痛ぇから医務室行って来るよい」
「そうかい」
クックッと喉を鳴らし、イゾウはゆったりと煙管を口元へ運ぶのだった。
医務室で手当を受け終えたリサは、すぐに仕事に向かおうとしたがドクターによってベッドに押し込まれていた。文句を口にしようものならドクターの鉄拳が飛んでくるので、大人しくベッドにいるしかない。だが、如何せん暇で仕方がない。身体は休息を求めているのだが、先程から一向に睡魔がやってこないのだ。レイア達やサッチは当然ながら各自の仕事に戻っている。溜息をついて仰向けに寝転がっていた身体を横に向けると、ズキリと全身が痛んだ。
「イテッ、」
「当然だバカタレ」
すぐに返ってきたドクターの刺々しい言葉に唇を尖らせ、包帯で巻かれた自身の手を見つめる。いざ、自由を手に入れてみても違和感を拭うことは出来なかった。
「なぁ、ドクター」
「んぁ?」
「……何か、気持ち悪ィ」
「吐くか?」
「そういうんじゃねぇよ」
分かっているだろうに、知らないフリをしてくれるドクターに苦笑して大きく息を吐く。違和感が拭えない。気持ち悪くて仕方がない。『リサ』として生きる事を決めたのは自分であり、そうしたいと思う気持ちに偽りは無い。けれど、どうしても拭えないのだ。こうして一人ベッドに大人しくいなければならないという状況がリサの思考を終わりの見えない迷路に迷い込ませているのかもしれない。
本当にこれで良かったのだろうか。恩人であるレオンとレイアの父親をこの手にかけた事は正しい事だったのか。レイアはただ「ありがとう」と言った。レオンは――レオンがどう思っているのかは分からない。手に残る感触を消し去りたくて強く握ってみるが、鈍い痛みが襲ってくるだけだった。
「……情けねぇな」
過去を変える事など出来るはずもないのだ。自分は確かに『リサ』であり、『イレイサ』でもあるのだ。そもそも、本当の名前すら思い出せなくなる程に強烈だった奴隷生活をそう簡単に忘れる事など出来るはずもない。こっそり溜息を零したその時、医務室の扉が開いて誰かが入って来た。
「何だマルコ、どうかしたか?」
「……いや、」
言葉を濁すマルコにピンときたのか、ドクターは「そうか」とだけ答えるとマルコが入って来た扉へと向かう。
「俺ァ、ちょっくらオヤジのトコに報告行ってくらぁ」
「おう」
ひらひらと手を振って医務室を出ていくドクターを見送ると、マルコはリサが眠るベッドへと歩み寄った。二人の会話が聞こえていたリサはマルコが自分に用があるのだと察し、痛む身体に顔を顰めながら上半身を起こしてマルコが来るのを待っていた。けれど、ベッドまでやって来たマルコは起き上がっているリサを見て盛大に顔を顰めた。
「……何で起き上がってんだよい」
「用があったんだろ?」
「寝たままでも話くらい出来んだよい」
「寝てろ」と頭を鷲掴まれてベッドに押し戻される。抗おうと腹筋に力を入れたがすぐに激痛が走り、リサは大人しくベッドに戻らざるを得なかった。痛みで歪むリサの顔を見て顔を顰めたマルコは、止めと言わんばかりにリサの額を強く弾いた。
「痛っ、何すんだよ」
包帯を巻かれた手で額を押さえながらマルコを睨むが、マルコは何も言わずに椅子を引き寄せてそこに腰を下ろした。「何か用があったんだろう?」そう聞こうとしたが、難しい顔をして俯いているマルコにリサは何も言えなかった。顔を見られたくなくて俯いているのだろうが、ベッドに横になっているリサからはその顔すら丸見えで、それに気付いていない所からマルコが何か思い詰めているのだという事が分かってしまう。
言いたくなれば言うだろう。そういう結論に辿り着いたリサはふぅと息を吐いて目を閉じた。先程までは微塵の気配も見せなかった睡魔がどうしてだか今になってゆらりと姿を現した。まだマルコの話を聞いていないのだから寝る訳にはいかない。そう思うのに、リサの意識はいとも簡単に睡魔に浚われて眠りの世界へと堕ちていった。
「…………」
リサが意識を手放した事にすら気付いていないマルコは未だ俯いたまま難しい顔で黙り込んでいたが、観念したように息を吐くと目を閉じて静かに口を開いた。
「………あー……その………なんだ、悪かった、よい」
照れ臭さを少しでも紛らわせる為にガシガシと頭を掻く。必死の思いで謝罪の言葉を口にしたマルコだが、いつまで経ってもリサからの返事はない。驚いているのだろうか。それもそうだろう、今までの己を振り返ってみたマルコは苦い思いで溜息を吐いた。そしてゆっくりと目を開けてリサをその目に映して――盛大に舌打ちをした。
「寝てんじゃねぇ!!」
ゴンと鈍い音が医務室に響く。いとも簡単に睡魔に誘われて眠りの世界へと飛び立っていたリサの意識が一瞬で覚醒した。
「痛ェよ! 何すんだ!!」
「るせぇ! 人が話してるってのに何寝てんだ!」
「お前がいつまで経っても変な顔で黙り込んでるからだろ! 眠ィんだよ! 起きるまで待ってろよ!!」
「何で俺がテメェが起きんの待ってなきゃなんねぇんだよい!!」
怒りに任せて怒鳴りつけたマルコは、同じく怒りに任せて大声を出した所為でベッドの上で悶絶しているリサに気付いて鼻を鳴らした。
「ダセェ」
「てめぇ……っ、治ったら絶対ぶん殴ってやる……!」
「ハッ、テメェごときの攻撃なんざ食らわねぇよい」
レイアの家で盛大に蹴り飛ばされた事はマルコの記憶からは弾き出され抹消されてしまったらしい。覇気を纏って繰り出された攻撃によりマルコもそれなりのダメージを負ったが、それ以上の傷を負わせてしまった手前、自分が休む事は出来なかった。
「……なぁ、マルコは休まなくて良いのか?」
しかし、そんなマルコの考えをあっさりと見抜いたリサの問いに、マルコはあからさまに顔を顰めた。
「そんなヤワじゃねぇよい」
「そんな顔で言っても説得力ねぇって」
苦笑しながらリサがマルコに手を伸ばす。驚き固まっているマルコの頬に触れた掌は温かかった。
「悪かった。私の所為で酷い目に遭わせてごめん」
眉を寄せながら紡がれた謝罪の言葉にマルコは眉を寄せた。その顔を見たリサは先程のマルコのように目を見開き、けれどすぐに笑みに変えた。
「ははっ、マルコのそんな顔初めて見た」
「?」
「何でマルコが申し訳なさそうな顔してんだよ。マルコは悪くねぇだろ?」
そんな顔をしているのかとマルコは自身の頬に触れてみたがよく分からなかった。顰め面に変えようとしたが、リサが笑っているままだからきっと変えられていないのだろう。マルコは舌打ちを一つ零して頬に触れたままのリサの手を払った。
「バカにすんな」
「してねぇって。助けに来てくれてありがとな」
「それはさっき聞いた」
顔を逸らして鼻を鳴らすマルコにリサは僅かに首を傾げてみせる。
「そういや、さっき何て言ったんだ?」
「あ?」
「私が寝てる時に何か言ったんだろ?」
「……二度は言わねぇよい」
「はぁ? 何だよそれ」
「聞いてなかったテメェが悪ィ」
立ち上がり扉へ向かってしまうマルコにリサは慌てて身体を起こそうとしたが、痛みに呻いて再びベッドへと戻っていった。
「ちょ、待てって! 何だよ!? 気になるだろ!」
「ハッ、ざまぁみやがれ」
「お前性格悪ィぞ! おい! マルコ!!」
けれど、マルコは振り返る事なく医務室を出て行ってしまった。残されたリサは大声を出した所為で痛みを訴える身体に呻きながら扉を睨み付ける事しか出来なかった。