モビーディック号が『奴隷の街』のある島を離れてから数ヶ月が経った。その間にも幾度かの航海を終えて島へ上陸し、現在は再び船の上で次の島へ向けて航海を続けている。
宴の席で場を乱したレイアは、翌日には白ひげの元へ謝罪に向かっていた。あの夜、白ひげのそばにいた船員達には多少の燻りが残ったものの、問い詰める事もなく今までと同じような日々が続いていた。
けれど、リサやジーン達は気付いていた。時折レイアが海の向こうを見つめている事に。遠くを見つめるその目に光は無く、それでもリサ達はレイアに何も言う事なくただその背を眺めていた。
「まーた見てんのか?」
カラリと晴れた日の夕暮れ、真っ赤な太陽が水平線の向こうに沈んでいくのを眺めるレイアを見ていたリサの元にサッチがやって来た。その視線はリサ同様にレイアの背を見つめている。
「アイツも頭硬ェからなぁ」
「『も』って部分が気になるな」
「お前だって十分頭硬ェだろうが」
ペシと頭を叩かれ、リサは不満げにサッチを睨み付けた。
「んだよ、変な頭しやがって」
「リーゼントバカにすんなコノヤロー」
「だから女にモテねぇんだよ」
「うっせ! 俺ァ陸に降りた時にボインの姉ちゃんとヤれりゃそれで良いんだよ!」
早口で捲し立てるサッチに声を上げて笑うと、レイアがこちらにやって来た。
「サッチ、下品」
「サッチ、キモイ」
「テメ、このやろ! 待ちやがれリサ!!」
「やなこった」
鬼のような形相で追い駆けてくるサッチから軽い足取りで逃げ回るリサ。そんな二人を眺めながら、レイアは心の中で感謝の言葉を紡いだ。気を遣わせている事は分かっている。まだ決心はつかないが、気持ちは大分落ち着いた。このままで良いとは思っていないが、ほんの少しだけ、今のままの状態が続いて欲しいとレイアは思った。
「――リサ」
「あ?」
いつの間にかサッチと取っ組み合いの喧嘩になっていたリサはレイアの言葉に振り向いた。微笑んでいるレイアは何処か吹っ切れたような顔をしていて、それを見たリサとサッチは顔を見合わせて小さく笑い合った。
「私も、前に進まなきゃね」
「付き合うぜ」
「ありがと」
「おっと、私らを忘れないでくれる?」
リサ達の元にテレサ達がやって来る。その顔はレイア同様に何かを決意しているようだった。
「乗り越える時は、一緒にな」
「私らも前に進まなきゃね」
「一緒なら、頑張れるよ」
「頼もしいこって」
「こんだけいりゃ、怖いモノなんざねぇな。何せ、このサッチ様だっていんだからな」
「サッチがいて何かの役に立つのか?」
「いっぺん本気で殴るぞ?」
「ハッ、出来るモンならやってみやがれ」
挑発的に笑い合うサッチとリサにジーン達はそれぞれ苦笑を零したり肩を竦め、レイアは声を上げて笑うのだった。
「へぇ、随分と積もってるな」
「本当……雪掻きするのが勿体ない気もするわね」
数日後の朝、いつもより冷えるなと思いながら身支度を終えて部屋を出たリサは、レイアと共に朝食を終えて甲板に出ていた。夜中のうちに冬島の海域に入ったらしく、甲板は既に一面銀世界と化していた。
その日の甲板掃除は二番隊と三番隊に割り当てられている為、リサ達は甲板掃除の代わりに雪掻きをする為に外に出てきたのだ。既に甲板に出ていた隊員達は掃除を放り出して遠くの方で雪合戦を始めている。その中にナンシー達の姿を見つけてレイアが苦笑した。
「元気ね」
「ガキは元気な方が良いだろ」
「ナンシーに言ったら怒られるわよ。それにサティ達にも」
「つーか、ジーンもテレサもお前らとタメだろうが」
いつの間にか背後に立っていたサッチの言葉にリサは肩を竦めた。
「お前、片付けは良いのか?」
「折角の雪だし、雪合戦しなきゃだろ?」
「ガキがここにもいたな」
「そうね」
「ほら! お前ェらもやるぞー!」
「おーいお前らー! とっとと雪掻きすんぞー!!」
「ちゃっちゃと終わらせちゃいましょう」
「ちょ、無視かよ!?」
「酷ェ!」と叫ぶサッチを無視し、リサとレイアは雪掻きの為のスコップを手に取った。
「後方が三番隊! 前方が二番隊だ! とっとと雪掻け!!」
「でも隊長! 雪掻きしたら雪無くなっちゃうんだぜ!?」
「島着いたら好きなだけやりゃ良いだろ!」
二番隊の隊員から上がった落胆の呻きを一切無視して雪掻きを始めると、隊員達も渋々と雪掻きを始めた。ブツブツと不満を口にはしていたが、最初にリサが雪掻きを始めると言った時点でナンシー達が雪合戦を止めて雪掻きを始めてしまったのだから、隊員達はそれに倣うしかなかったのだが。
順調に雪掻きを始めていたが、リサはライア達が甲板にいない事に気付いていた。
「サッチ、悪ィがライア達連れて来い」
「命令系で『悪ィ』って言われても気持ちが篭ってねぇぞ」
「さっさとしろよ。んで、クソ隊長のトコにいやがったら嫌味の十や二十並べてやれ」
「俺のリーゼントを犠牲にしろってか。――ったく、しゃあねぇな」
雪が積もりかけた頭を軽く振って落とすと、サッチは船室へと消えていった。
「どうするの?」
「あ?」
「あの子がマルコの所にいたら」
「島への上陸を禁止する」
「――ま、しょうがないわね。仕事サボるようじゃどうしようもないか」
漸く普段の仕事をするようになったのだから、そのまま続けて欲しい。仕事さえこなしてくれれば、誰と付き合おうが何処で何しようが構わないのだから。リサは溜息を飲み込んで雪を掻き続けた。
ライア達がサッチに連れられて甲板にやって来たのはそれから十五分後の事で、どうやらライアの部屋で楽しくお話をしていたそうだ。マルコは一番隊の仕事で一緒ではなかったらしい。
「二番隊が今日の甲板掃除だって事は知ってたはずだよな?」
「忘れてました、ごめんなさい」
「食堂のボードに書いてあったはずだが?」
「忘れてました、ごめんなさい」
「四人揃って忘れてたって?」
「忘れてました、ごめんなさい」
誰に何を言っても同じ答えしか返ってこない。リサの後ろでレイアが僅かに顔を顰め、サッチが溜息を零した。
「で、忘れてたお前らはこれからどうすんだ?」
「雪掻きをします」
「今すぐやれ」
淡々と答えるライア達に指示すると、四人は全く悪びれる事なくスコップを手にして雪掻きを始めた。その姿を見やり、リサは思わず零れそうになる舌打ちと溜息を一気に呑み込んだ。
その夜遅く、リサは甲板に一人佇み酒を煽っていた。舞い落ちる雪が髪に積もり、喉を通る酒と冷たい風がリサの身体を冷やしていくが、本人はそんな事お構いなしに飲み続けている。
「何してんだよい」
珍しい声に振り返ると、不機嫌そうな顔のマルコが立っていた。
「何って、酒だけど?」
「こんな寒空の下で? とうとう狂ったのかよい」
「こんくらい、どうってことねぇだろ」
そう言って酒を呷るリサを苦々しげに見遣り、マルコはその手に持っていた布をバサリと投げかけた。目を丸くしているリサに「サッチからだよい」と告げると振り返る事なく船室へ戻って行く。
「――サンキュ」
礼を言うとマルコが一瞬足を止めたが、何も言わずに船室へと消えていった。
「珍しい事もあるもんだ」
受け取った毛布を羽織るとじわりと温かさがリサを包む。寒さを感じていた訳ではなかったが、身体が冷えていたのは事実で、温かくなっていく身体に僅かに息を吐いた。白い息が夜空に溶けていくのを眺めながら再び酒を呷ると、先程よりも冷たく感じた。
「もうすぐ次の島に着くな……」
まだ影も形も見えないが、こうして冬島の海域に入ったのだから明日には島に着くだろう。その島の事を考えたリサは、先日のレイア達との会話を思い出して僅かに顔を顰めた。
「負けんなよ」
小さな言葉で呟いたそれは誰に向けてのものだったのか。残りの酒を飲み干すと、リサは半日で再び降り積もった甲板に寝転んだ。誰も通らなかった真っさらな雪の上に寝転ぶと、闇色の空からふわふわと真っ白な雪が降ってくる。雪がリサの顔の上で溶けていくが、構う事なくリサはただ夜空を見上げ続けた。
「負けるな」
同じ言葉を繰り返してそっと目を閉じる。酒のおかげで高くなった体温と温かい毛布の効果は抜群で、頬を覚ます冷たい風など気に止める事なくリサは微睡みの中へと意識を飛ばした。
「………何やってんだよい」
十数分後、再び甲板を訪れたマルコの視界に飛び込んだのは、降り積もる雪の上で毛布に包まりながら寝息を立てるリサの姿だった。
「バカ野郎が」
舌打ちと共に吐き捨てて自分よりも細く小さな身体を抱き上げる。僅かに身じろいだリサはそれでも起きる気配を見せずに寝息を立て続けている。
「風邪引かれて仕事が手につかなくなるのが困るからだい」
自らの行動に言い訳をしながら、マルコは細い身体を抱えて船室へと戻って行くのだった。