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日本に移り住んで数年。
言語は魔法でどうとでもなるが、文化の違いはどうしようもない。
最初こそ慣れない文化に四苦八苦していたレイだが、数年も経てばすっかり馴染んでしまった。未だに言語は魔法でどうにかしているが、誰にも気づかれていないのだからこれからもこのままで良いだろうと思っている。もう少し余裕が出来た頃、気が向けば日本語というものを勉強すればいいのだから。

志望していた魔法省への就職を諦めさせられ、日本へ移り住んだレイはそれ以降ずっと母と連絡を取っていない。自分の未来を奪ったのだ、いくら母親と言えどそう簡単に許せることではなかった。

式の後、キングズ・クロス駅でレイを待ち受けていた母から断片的な説明を受けた。
母がとある一族の末裔だということ、ルーシーがその力を受け継いでしまったということ。その力を求めるヴォルデモートと手を組んだということ。これから荒れるであろう魔法界から逃げるように頼まれたのだということ。

掻い摘んでされた説明は、何から何までレイには到底理解し難いものであった。どんなに抗議しても聞き入れてはもらえず、ただ日本にいろと母は言った。
いつもの優しい母はどこに行ったのか。目の前に立つ険しい顔をした魔女に酷く困惑し、傷ついた。

口先だけの謝罪などレイの心には響かない。
ルーシーがスネイプを棄てたのはヴォルデモートの元へ行くと決めたからなのだろう。そう考えたら怒りは留まることを知らず、あんなに大切だった姉がただただ憎くて仕方なかった。好きだと思っていたはずだ。だからこそ、二人を認めていたというのに。
スネイプだけではない。ルーシーの親友だった彼女たちへの、そしてレイへの裏切りだ。

行き場のない怒りをどうすることも出来ぬまま始まった日本での生活。
住む場所と最低限の援助をしてくれた母との接触を絶ったレイは、独りで生きていくことを決めた。

もう誰も信用しない。
一番身近にいた家族に裏切られたのだ、家族以外の人間など言うまでもないではないか。
時折寄せられる母からの便りを無視し、ひたすらに勉強した。

その途中で出会った一人の日本人の青年と、レイは恋に落ちる。
もう誰も信じない――そう決めていたレイの頑なな心を、彼は優しく包み癒してくれた。
魔法などとは全く縁のなかった彼は、その広い心とレイへの愛で全てを受け入れてくれた。

魔女? そんなの関係ない。
僕は君が好きで、だから君の傍にいたい。

そうして漸く手に入れた幸せ。
彼と共に生きていこうと決めたレイは、とうとう母に何の連絡もしないままに彼との結婚を決めた。
どちらにしろ、最初の一、二年が過ぎた頃から殆どと言っていいほど音信不通だったのだから何の問題もあるまい。たとえ反対されたとしても、聞く耳など持つはずもなかった。

そして更に時は経ち、レイの前に母は現れた。
傍らに立つ幼い少女の手を引いて。


「何、ですって?」


信じられない。何を言っているのだ。
そんな目で見つめ返すレイに、病気を患ってしまったのだという母は力なく微笑んでいた。

「名前はリサよ」

違う。そこじゃない。聞き返したのはそこじゃない。
焦れったさに苛立つレイに母は数度咳き込んでからまた微笑む。

「この子は、ルーシーなのよ」

少女に聞こえないようにと声を潜めた母の言葉をどう受け取れば良いのか。
ルーシー?この少女が?まだ十歳にも満たないであろうこの少女が?
何を言っているのだ。病気で頭がおかしくなってしまったのだろうか?

困惑するレイを他所に、少女にあっちで遊んでおいでと微笑みかけた母は、示された方へ駆けていく少女の背を見つめながら静かに語った。

リリー・エヴァンズとジェームズ・ポッターが死んだことはレイの耳にも入っている。
姉の末路を嘲笑ってやろうと取り続けていた日刊預言者新聞に書いてあった。
ヴォルデモート卿が死んだこと、ポッター夫妻が殺されたこと。
ハリー・ポッターが生き残ったこと。

けれど、母は言う。
ヴォルデモートは死んではいないのだと。
あの夜、あの場にはルーシーもいたのだと。
そして、祖先から受け継いだ力を使って赤ん坊へ戻ったのだと。
その際に記憶が消えてしまったのだと。

「私はもう長くない……レイ、どうかあの子をお願い」
「っ、ふざけないで……!!」

今更。何でそんなことを。
よくも言えたものだ。全てを奪っておいて。その元凶を育てろと?ふざけるな!
声を荒げるレイに、母はただただ悲しげに微笑んだ。

「ごめんね、レイ」
「っ、」
「貴方には……とても辛いことだった」
「今更……っ、」

今更。全てが今更だ。
もう遅い。未来は奪われてしまったのだから。
漸く、漸く受け入れることが出来たのに。
彼に出会って、恋をして、愛に変わって、漸く。漸く幸せだと思えるようになったのに。

どうして。

「母さんはいつだってそう! いつだってルーシーのことばかり!」

同じくらいの愛情をもらえなかったのは、力を持たなかったから?
ヴォルデモートに狙われるような力を欲するわけではないが、力の有無が母からの愛情に差が出てしまうのなら。
欲しかった。そう思ってしまう心だってある。
レイにとっては、大好きな母だったのだから。

「………分かったわ」

あの少女を引き取って育てる。レイは了承し、シエラはありがとうと笑った。
遠くで独りで遊ぶ少女は、確かに姉の幼い頃の姿によく似ている。ルーシーが若返っただけなのだから当然なのだけれど。

「その代わり……もう、会いに来ないで」
「えぇ……分かってる」

そのつもりだと母は笑った。
レイの大好きだった優しい笑みを浮かべた母は、やせ細った手を伸ばしてレイの頬を包み込む。
戸惑い動くことを忘れたレイをそっと抱きしめた母の温もりに、じわりと涙がこみ上げた。

どうして。
好きだったのに。

どうして。
大好きだったのに。

どうして。

言葉の代わりに零れ落ちる涙を拭い、母は悲しげに眉を寄せる。

「ごめんね………レイ、ごめんね……」

答えられないレイをもう一度抱きしめ、母は目尻に光る涙を拭って少女を呼び寄せた。

「おかーさん」
「リサ、これからはこの人が貴方の傍にいてくれるわ。レイよ」
「レイ?」

こてん。首を傾げる少女を見下ろして、レイは苦虫を噛み潰したような顔になる。

「大丈夫。大丈夫だから……きっと、大丈夫」

まるで暗示のようだとレイは思った。
何が大丈夫なのか。どこが大丈夫なのか。
少女を抱きしめた母が独り立ち去って行くのをぼんやり見つめていたレイは、そっと握られた手にハッとして少女を見下ろした。

「おかーさん、もうあえないの?」

全てを見透かすような真っ直ぐな目に怯んだレイは、苦い顔のまま顔を背けた。

この子は、ルーシーだ。
私から全てを奪った、憎い姉だ。

何度も言い聞かせ、小さな手を振り払う。

「私の言うことを聞くように」

淡々と告げた声と冷めた目に、僅かに身を揺らした少女が小さく頷く。
それにほんの少しばかり胸が痛むのを感じながら、レイは強く拳を握る。

優しくしてやるつもりなど、毛頭ない。
どんなに幼くとも彼女は自分を裏切った姉なのだから。
記憶が戻らない保証など、どこにある?
心を許したりはしない。今度こそは。

もう傷つけられたくない。

耐えるようにぐっと眉根を寄せたレイは、傍らの少女が悲しげに目を伏せたことに気付かなかった。