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手にしたジョッキが大きな音を立てて床に落ちた。
ロンから黙れと蹴りを食らったが、痛みなどハリーは感じなかった。

今、何て言った?
『三本の箒』の女主人、マダム・ロスメルタは、何て――?

「皆、ブラックとポッターは兄弟じゃないかと思っただろうね! まさに一心同体!」

フリットウィックの甲高いキーキー声が耳に響いて、けれど信じられなくて。彼らは一体何を言っているのだろう?そんなこと、あるはずがないのに。シリウス・ブラックが――ハリーの生命を狙う脱獄囚が、ハリーの父親と……?

「全くそうだった!」

追い打ちをかけるようにファッジの声が続く。

「ポッターは他の誰よりブラックを信用した。それは卒業しても変わらず、ブラックはジェームズがリリーと結婚した時には新郎の付添役を務めた。二人はブラックをハリーの名付け親にまでした――勿論、ハリーは全く知らないがね。言えるはずがない、あの子が知ったらどんなに辛い思いをするか」
「ブラックが『例のあの人』の一味だったから?」

ロスメルタが囁く。もっと悪い。ファッジが疲れたように呟いた。

「ポッター夫妻は、自分達が『例のあの人』に狙われていると知っていた。ダンブルドアは数多く抱えていたスパイの内の一人から情報を聞き出し、すぐに二人に身を隠すよう勧めた。だが、勿論『例のあの人』から身を隠すのは容易ではない。ダンブルドアは『忠誠の術』が一番助かる可能性があると二人に告げたのだ」
「どんな術ですの?」
「恐ろしく複雑な術ですよ」

ロスメルタの質問に答えたのはフリットウィックだ。
『忠誠の術』とは生きた人間の中に秘密を魔法で封じ込める術で、選ばれた者は『秘密の守人』として情報を自らの中に隠すのだと。

「『秘密の守人』が暴露しない限り、その秘密を見つける事は不可能となる。たとえ『例のあの人』が二人の家の居間の窓に鼻先を押し付けるほど近付いても、見つけることは出来ない」
「それじゃ、ブラックはポッター夫妻の『秘密の守人』に?」
「当然です」

今度はマクゴナガルの声だ。

「ブラックだったら二人の居場所を教えるぐらいなら死を選ぶだろう、それにブラックも身を隠すつもりだ――ジェームズ・ポッターはダンブルドアにそう言いました。それでもダンブルドアは心配していらっしゃった……自分が夫妻の『秘密の守人』になると申し出られていたのです」
「ダンブルドアがブラックを疑っていた――?」
「ダンブルドアには、誰かポッター夫妻に近い者が二人の動きを『例のあの人』に伝えているという確信がおありでした……味方の誰かが裏切って情報を漏らしているのではと疑っていらっしゃったのです」

けれど、それでもジェームズ・ポッターは頑として譲らなかった。
シリウス・ブラックなら信頼出来る、彼以上に信頼出来る人間はいない――そう言われてしまえば、ダンブルドアももう反対など出来なかった。

ジェームズとリリーを『忠誠の術』で隠し、その『秘密の守人』をシリウス・ブラックとした。
けれど、術をかけてから一週間も経たない内にブラックが裏切った。裏切ってしまった。夫妻の居場所をヴォルデモートに教え、自らも彼を支持すると宣言しようとして――けれど、ヴォルデモートはハリーに敗れて凋落してしまった。

「くそったれのアホンダラの裏切り者め!」

ハグリッドが吼えた。バーにいた人の半分が静まり返り、マクゴナガルが慌ててハグリッドを宥めるが、酒の入った彼は止まらない。

あの夜、ハリーを迎えに行った先でシリウス・ブラックと出会したこと、彼が自分がハリーを育てると言ったこと、ダンブルドアの命令があるから無理だと断ったこと、彼のバイクをもらったこと――ハグリッドが語るそれらは、どれもハリーが知らなかったことだ。ハリーに関わることなのに、ハリーは知らなかった。

”ポッター、君、知らないのか?”

不意に学期始めのドラコに言われたことが蘇った。
あいつは知っていた。シリウス・ブラックがハリーの父親の親友だったことを。裏切ったことを。何もかも、知っていた。ハリーだけが知らなかった。

「でも、ブラックは逃げ遂せなかったわよね? 魔法省が次の日に追い詰めたわ!」
「あぁ、魔法省だったら良かったのだが!」

ロスメルタの満足気な声にファッジが悔しげに返す。もう嫌だ、聞きたくない――そう思うのにハリーは聞き耳を立てることを止められなかった。

「奴を見つけたのは我々ではなく、チビのピーター・ペティグリューだった――ポッター夫妻の友人の一人だ。多分、悲しみで頭がおかしくなったのだろう……ブラックがポッターの『秘密の守人』だと知っていたペティグリューは、自らブラックを追った」

ホグワーツに在学していた頃、いつだってジェームズとシリウスの後をくっついて回っていた少年。二人を英雄のように崇めていた彼は、実力で言えば二人の足元にも及ばなかった――マクゴナガルはそう言って鼻を啜った。

「ペティグリューは英雄として死んだ。目撃者の証言では、ペティグリューはブラックを追い詰めることに成功した。泣きながら『リリーとジェームズが。シリウス! よくもそんなことを!』と叫んでいたそうだ。それから杖を取り出して――だがしかし、勿論、ブラックの方が速かった。ペティグリューは木っ端微塵に吹っ飛ばされてしまった」

魔法省の役人が現場に到着した時には、シリウスは狂ったように笑っていた。道の真ん中に深く抉れたクレーター――その底には亀裂の入った下水管が剥き出しになっていたとファッジは言う。マグル達が悲鳴を上げるのも無理はない。死屍累々の中に、ピーター・ペティグリューの血だらけのローブ、そしてほんの僅かの肉片――。
役人達によって捕らえられたシリウスはアズカバンの監獄へ連行された。吸魂鬼達が看守を務める中で正常を保てる魔法使いはほぼ皆無らしいが、それでも先日、ファッジが視察に向かった際にブラックは異常なほどに正常だったという。

「新聞を読み終わったならくれないかと言ったよ。洒落てるじゃないか、クロスワードパズルが懐かしいからと言うんだよ。吸魂鬼がすぐ傍にいて、尚もあの男は正気だった。脱獄されはしたが時間の問題だ。ブラックは必ず逮捕する」

ファッジの言葉を最後に彼らの声はハリーの耳に届かなくなった。もしかしたら何か話していたかもしれないが、ハリーには全く聞こえてこない。頭のどこかでガンガンと何かが煩く鳴り響いていたからだ。

ブラックが。シリウス・ブラックが。
ハリーを狙っていたことは知っていた。ロンの父・アーサーから聞かされていたから。

けれど、これは。こんな、こんなの。

「ハリー……?」

マクゴナガル達が立ち去ったのだろう。気遣わしげなロンとハーマイオニーの顔がテーブルの下を覗きこんだ。それに返事をする余裕すら、ハリーにはなくて。

”僕なら、自分でブラックを追い詰めるけどね”

ドラコの嘲るような声だけがガンガンと頭に響いていた。