ハーマイオニーの脳裏には今までの思い出が蘇っていた。
人は死ぬ直前に人生が走馬灯のように駆け巡るというが、それは本当だったのだと、目の前に迫る恐ろしい生き物を見つめながらぼんやりと考えた。
呪文学の時間に行われた浮遊呪文の練習。勿論、しっかり予習をしていたハーマイオニーには容易い事だ。皆もしっかり予習をしていれば良かったのに――呪文の発音を間違えたり、杖の振り方を間違えたりするクラスメイト達を見回してそんな事を考えた。
「ウィンガディアム レヴィオーサ!」
長い腕を風車のように振り回して叫ぶロンに顔を顰めたハーマイオニーは我慢できずに言った。発音が間違っていること、杖の振り方を間違っていること。日頃からハーマイオニーに対して良い感情を持っていないロンには、それが我慢出来なかったのだろう。そんなに言うなら自分がやってみろと突き放すように言った。
失敗するはずがない。だって、ハーマイオニーは何度も練習をしたのだ。
何度も教科書を読んで暗記し、何度も練習をして会得した呪文だ。今更、失敗は有り得ない。
「ウィンガーディアム レヴィオーサ」
ハーマイオニーの目の前にあった羽根は、ハーマイオニーの考えた通りにふわりと浮き上がった。クラスで一番最初にハーマイオニーが成功してみせたのだ。フリットウィック教授にも褒められた。ハーマイオニーが努力した結果が、ここに現れたのだ。
それなのに、ロンは言う。
ハーマイオニーは悪夢みたいな奴だと。誰だってハーマイオニーには我慢出来ないのだと。
どうして。私はただ、頑張っただけなのに。
規則を破れば減点される――それならば、破らなければ良いだけだ。
勉強を頑張れば加点される――それならば、勉強を頑張れば良いだけだ。
私は頑張ってるのに。どうして頑張らない人達にそんな風に言われなきゃならないの。
さっきだってそうだ、呪文を上手く出来なかったロンに、出来るハーマイオニーが教えてあげただけだ。
何で。どうして。どうしてよ。
知っていた。クラスの皆から煙たがられている事を。ただの僻みだと思っていた。何も努力しないで、努力したハーマイオニーを目の敵にして。酷い。何て酷い人達。
でも本当は思っていた。仲良くなりたいと。七年間一緒に過ごすのだ、仲良くなりたいに決まっている。それなのに向こうがそうさせてはくれない。
”ハーマイオニー大好き!”
そう言ってくれたルーシーの顔が蘇る。大好きだと言ってくれた。でもそれは、ハーマイオニーが宿題の手伝いをすると申し出たからだ。勉強を教えてあげるから――ルーシーにとって利があるから、ただそれだけの理由。
深い意味なんてない。ハーマイオニーが望む意味ではない。現に、ルーシーは何度注意したって悪戯を止めない。ハーマイオニーの事を想ってくれているのなら、すぐにでも止めるはずだ。だから、違う。あれはただ適当に言っただけで、本当はそんな事思ってない。
あぁ、どうして自分はこうなのだろう。
仲良くなりたい。一人は嫌に決まっている。友達が欲しい。何でもない事で一緒に笑い合える友達が欲しいのだ。
女子トイレに駆け込み、ハーマイオニーはひたすら泣いた。
こんな所で泣いていたって何も変わらない事くらい、優秀なハーマイオニーには分かっていた。けれど、怖くて。
拒絶される事が怖くて。ロンの言った言葉が頭から離れなくて。
「ハーマイオニー、大丈夫?」
個室の外からかけられるパーバティ・パチルの声に「一人にして」と返した。
どうして。出て行けば良いのに。仲良くなりたいと、ただそう言えば良いだけなのに。食い下がる事もなく去っていく足音にすら悲しくなって。
泣いて、泣いて、泣いて。
どれくらいそうしていただろうか。何かを引きずるような音と、微かな振動。地響きのような音は何だろうかと思いながら個室の戸を開けたハーマイオニーの泣き腫らした目に飛び込んだのは、本でしか見た事のなかった巨大な生き物。トロールだ。
「、……!、……!」
恐怖で声が出ない。こちらをまっすぐ見つめるトロールの小さな目には自分の姿が映っているのだろう。考えただけで身体が震えだす。逃げなきゃ。どこに。出口はトロールの背後だというのに!
引きずる音の正体は棍棒だった。大きな大きなトロールが、これまた大きな棍棒を振り上げて――次の瞬間、ハーマイオニーは転がるようにして逃げ出した。ついさっきまでハーマイオニーが入っていた個室が大きな音を立てて壊された。
もし、自分がいる時にそうされていたら――ハーマイオニーは青褪めた。
次々に振り下ろされる棍棒から命からがら逃げ回る。動きが鈍い事だけが唯一の救いだ。けれど、それも長くは続かない。恐怖で竦む足が上手く言うことをきかないのだ。トロールの背後に回り込む事が出来ず、ハーマイオニーは奥の壁に張り付いた。洗面台を次々に薙ぎ倒しながら、トロールが一歩また一歩と近寄ってくる。
あぁ、どうしよう。ダメだ。殺されてしまう――!
強く目を瞑ったその時、トロールの背後から大きな声が聞こえた。
「こっちに引きつけろ!」
誰の声だろうか。先生――ではない。もっと若い、幼い声だ。トロールの頭や肩、腕に何かが投げつけられるのを、ハーマイオニーはぼんやりと見た。背後に気を取られたトロールがハーマイオニーに背を向けたその時、向こうにハリー・ポッターの姿を見つけた。トロールは棍棒を振り上げてハリーへと近づく。
「やーい、ウスノロ!」
今度はロンの声がした。ハリーから離れた場所にいるロンが手にした金属パイプをトロールに向けて投げつける。どうして。疑問は声にはならなかった。ロンがトロールの気を引いている隙にハリーがこちらへとやって来る。
「早く、走れ、走るんだ!」
腕を掴まれて引っ張られたけれど、恐怖で竦んだままのハーマイオニーの足はやはり言うことをきいてはくれない。動けないハーマイオニーにハリーが焦れったそうな顔をして、ロンへと視線を向ける。トロールは逃げ場のなくなったロンに向かって棍棒を振り上げていた。
ロンが殺されてしまう!――そう思った次の瞬間、ハリーが突然走り出した。トロールの背中に向けて走ったハリーは、あろう事かそのままトロールに飛びついた。ハリーの腕がトロールの首に巻きついたと同時に、手にしていた杖がトロールの鼻に突き刺さる。トロールが唸り声を上げながら棍棒を振り回した。
「ウィンガーディアム レヴィオーサ!」
それは数時間前にハーマイオニーが唱えた呪文と全く同じ発音だった。ロンの声だ。寸分の狂いもないその呪文は見事に作用し、棍棒がトロールの手から飛び出た。高く高く浮遊した棍棒は、やがてゆっくり一回転すると嫌な音を立てて持ち主の頭に落ちた。
すごい。脳天に直撃されたトロールが白目を剥いて倒れるのを見つめながら、ハーマイオニーは呟いた。それと同時に、肝心な時に何も出来ずにいた自分が恥ずかしくなる。授業では失敗していたロンが見事にトロールを倒してみせたのに、自分は恐怖に竦んで逃げる事すら出来ずに二人の足手まといになってしまったなんて。
立ち上がったハリーが息を切らした音だけが女子トイレに響く。ロンは杖を振り上げたまま呆然と突っ立っていた。
「、これ……死んだの?」
掠れ声で尋ねるとハリーが首を振る。ノックアウトされただけだと思う。そう言ってトロールの鼻に突き刺さったままの杖を引き抜いた時、バタバタという足音が聞こえてきた。誰かがやって来る。ハーマイオニーとハリーは顔を見合わせた。
現れたのはマクゴナガルだった。その後にスネイプ、クィレルが続く。クィレルはトロールを見た途端にヒーヒーと弱々しい声を上げ、胸を押さえて座り込んでしまった。スネイプがトロールを覗き込んで失神しているのを確認する間、マクゴナガルがハリー、ロン、ハーマイオニーへと順に視線を向ける。唇は蒼白でとても険しい顔をしていた。
「一体、どういうつもりなんですか」
静かな声には隠しきれない怒りが滲んでいる。ハリー、ロンを盗み見るとハリーも困った顔で視線を彷徨わせていた。ロンは未だに杖を振り上げたまま固まっている。
泣いていただけだ。自分はただ、悲しい事があって女子トイレで泣いていただけ。トロールの事は知らなかった。けれどハリーとロンは違う。トロールが徘徊していると知っていて城を歩き回っていた。違反者として罰せられても仕方がない。
本当に?頭の片隅で誰かが囁いた。
助けてくれたのに。助けに来てくれたのに。
「――あのっ!」
散々な一日だった。
せっかくのハロウィンだというのに、ロンの心ない一言で傷付けられて。泣いて、泣いて。トロールに出会して、襲われて。初めて先生に嘘もついてしまった。
「ハーマイオニー!! あぁっ! ひ、膝擦りむいてる! いいい痛い!? 痛い!? 医務室!! あっ! ハリー! ロンも!? 何で! 何があったの!?」
談話室に戻るや否や、入り口で待っていたルーシーが顔面蒼白で三人に駆け寄って来る。三人があちこちに掠り傷を作っているのを見て悲鳴を上げるルーシーに、ハーマイオニー達は顔を見合わせて苦笑を浮かべた。
「落ち着いてよルーシー。僕ら、本当に疲れてるんだ」
「全く、まさかトロールと戦う破目になるなんて夢にも思わなかったよ。君、どこにいたんだい? 探しに行く時は一緒だったのに」
「だって女子トイレだって言うから! 私だってずっと探してたのに! トロールに会ったの!? 戦ったの!? 勝ったの!?」
「落ち着けってば」
ハリーが繰り返した。
漸く口を噤んだルーシーは、けれど三人の身体のあちこちに出来た傷を見ては、まるで自分が怪我をしたかのように痛がっている。不意に目が合うと、ルーシーは痛みに歪めていた顔を顰め面へと変えてハーマイオニーを睨みつけてきた。びくりと震えたハーマイオニーにずんずん近寄ってきて、目の前でぴたりと足を止める。
文句を言われるのだろうか。ハリーとロンが怪我をした責任を問われるかもしれない。ぐっと唇を噛みしめたハーマイオニーは、次の瞬間、両頬に衝撃を受けた。頬がじんじんする。ルーシーの両手がハーマイオニーの両頬を挟んでいた。
「私はハーマイオニーの事ずっと友達だと思ってたんだけど」
「、」
「ハーマイオニーは違うの?」
不満気なルーシーの顔がじっとハーマイオニーを見つめている。ぱちぱちと目を瞬いてハーマイオニーは頭のなかでルーシーの言葉を反芻した。そしてその言葉の意味を理解して、気付く。視界の端でハリーとロンが肩を竦め合ってるのが見えた。
「宿題手伝ってくれたの嬉しかったし、怒ってくれたのも嬉しかったよ」
「………止めなかったじゃない」
口元が緩むのを感じながら、ハーマイオニーはルーシーの手を払い除けた。
「怒られてでもやりたい」
「グリフィンドールの点が減るのよ」
「あれっ、さっきは君が減点されてなかったっけ?」
「あれは貴方達を庇ってあげたからよ」
素っ気ないやり取りをしながら、けれど誰もが笑っていて。どうしたって綻んでしまう唇を噛みしめてハーマイオニーは思う。
今日は本当に散々な一日だった。
けれど、今日の事はきっと一生忘れられないだろう。
ホグワーツ魔法魔術学校に入学して、初めて友達が出来た日なのだから。