リーマス・ルーピンは人狼である。
それを知るのは彼の入学を認めた校長のアルバス・ダンブルドアと寮監のミネルバ・マクゴナガル、そして校医のマダム・ポンフリーだけ――のはずだった。
けれどルーシーは知っている。ルーピンの親友であるジェームズ、シリウス、ペティグリューがルーピンの正体を知っているということを。ルーピンの為に法を犯し、未登録の動物もどきになったことを知っている。ジェームズから聞いたわけでは勿論ない。正確に言えばシリウス・ブラックとリーマス・ルーピンから聞いたのだが、勿論今この時代を生きる彼らから聞いたわけでも勿論ない。もっともっとずっと昔――そしてはるか未来の話だ。
だからルーシーは知っている。スネイプがルーピンの正体に辿り着くことを。詳細は知らない。ただ、スネイプがルーピンの正体に辿り着く何かがあったということを覚えているだけだ。だからこそルーシーはルーピンを探るスネイプを止めなかった。このままルーシーの記憶通りに未来が進むことを嫌だと思うのに、変える勇気が持てずにいる。このままでは将来とてつもなく悲しいことが起きてしまうと分かっているのに。
「ねぇ、スネイプ。本当に行くの?」
小さな声で問いかけるとスネイプは「まさか怖気づいたのか?」と呆れたようにルーシーに囁いた。
陽はすっかり沈み、夕食の時間も過ぎた。生徒たちが城の外に出るのに相応しくない時間であることは間違いないが、スネイプはそれでも城を背にして歩き続けている。同じ透明マントに身を隠しているからルーシーも動かないわけにはいかず、二人はどんどん城から遠ざかっていた。
「そういうわけじゃないよ。でも……だって、ブラックが言ったことだし……」
ルーピンを探ると決めてから三週間、スネイプは毎日のようにルーピンを観察していた。城へ戻ってきた直後のルーピンはとても具合が悪そうだったが、数日もすれば少しずつ元気を取り戻していった。スネイプの言う通り母親ではなくルーピン自身が病気のように見えた。
未だ脱狼薬が開発されていないこの時代では、人狼に変身したルーピンが自我を保つことは不可能だ。叫びの屋敷の幽霊の噂はルーシーの耳にも入っているし、ルーシー達が入学した時に植えられた暴れ柳が何の役目を持っているのかも知っている。知っていてスネイプには何も言わなかった。はるか昔「ルーピン先生」にお世話になったことを忘れていなかったからだ。ジェームズとシリウスを止めてくれないルーピンに失望したのも事実だが、それでも人狼という業を背負った彼の秘密くらい守ってやろうと思ったのだ。
それなのに。ルーシーは溜息をついた。隣を歩くスネイプが「静かにしろ」と厳しく窘めてくる。
シリウス・ブラックは嫌な奴だ。いくらハリーにとって大切な相手だろうが、神秘部の戦いで助けられていようが、嫌な奴だ。ルーシーの彼に対する評価はとてつもなく低く成り下がっていた。
ルーピンのことを探っているスネイプに、何を考えたのかシリウスは「後を追え」と言ったのだ。暴れ柳の根元の抜け穴のことも、暴れ柳を大人しくさせる方法も、全て――唯一、ルーピンの正体だけを伏せて彼はスネイプに言った。
”夜中に城を抜け出すのが怖いか? 臆病者”
嘲るシリウスを睨みつけたスネイプは、今こうして暴れ柳へ向かっている。一人でも行くと言ったスネイプに絶対に一緒に行くと言ったのはルーシーの方だ。助かると分かっていても一人で行かせるのが怖かったのだ。もし、ルーシーの知る未来と違っていたら。もし、スネイプが人狼に変身したルーピンに噛まれてしまったら、殺されてしまったら――そんな不安が一度でも頭を過ぎってしまえば「行ってらっしゃい」などと口が裂けても言えるはずがなかった。
「ねぇ……やっぱり戻らない?」
「戻りたいなら一人で戻ればいいだろう。僕は行く」
取り付く島もないスネイプに情けなく眉を下げて。ルーシーはそれ以上何も言わずに足を進めた。
やがて辿り着いた暴れ柳の前で立ち止まると、自分のテリトリーを侵す者達を排除しようと暴れ柳が大きな両手をうねらせる――スネイプが手にした石に魔法をかけて暴れ柳の根元へ置いた。途端にぴたりと動きを止めたのに感心したように息を吐いたスネイプが、こちらを見ないままに「行くぞ」と声をかけてくる。
「それとも戻るか?」
その問いかけはまるでルーシーを試しているかのようだった。僅かに眉を寄せたルーシーは、杖を取り出して腕まくりをすると無言でスネイプの隣に並ぶ。スネイプが微かに笑った。
「ルーモス」
杖先に微かな明かりを灯して足元を照らすと、スネイプとルーシーは真っ暗なトンネルを奥へ奥へと進んでいった。この先に何があるのかルーシーは知っている。以前一度だけ人狼に変身したルーピンに会った時は散々だったということを思い出せば、緊張で手のひらにじっとりと汗が滲んだ。無意識にスネイプのマントを掴むと、気付いたスネイプが「怖いのか?」と馬鹿にしたように笑った。
「そんなんじゃない」
「どうだかな」
揶揄を含む声は、それでも「放せ」とは言わなかった。
長いトンネルを抜けると、そこは古びた屋敷に繋がっていた。知っている。何度も通ったのだ、知っているに決まっている。ルーシーの記憶よりも綺麗な建物の奥からは呻き声が聞こえてくる。幽霊と噂される者の声だ。
「奥の部屋だ……」
スネイプが囁きながら一歩前へ出た。その背に縋り付くようにしてルーシーも後に続く。歩きづらいのか、くっつかれたのが嫌だったのか、スネイプが一度だけ顰め面でこちらを見たが、それでもやはり離れろとは言わなかった。
ゆっくり、ゆっくりと呻き声の聞こえる方へと足を進める――微かに開いた戸の隙間から中を覗き込んだスネイプが息を呑んだ。肩越しにそっと部屋を覗き込んだルーシーも喉を震わせる。間違いない。ルーピンだ。背中が奇妙に盛り上がり、ライトブラウンの髪があるはずの頭には二つの小さな三角形がくっついている。頭を抱える長い腕の先には鋭い爪が見えたし、頭をぶるぶると振った拍子に長い鼻面のシルエットが板張りの床に映った。
ルーシーはスネイプのマントをくいくいと引っ張った。行こう。声に出さずに口を動かすとスネイプは微かに頷いた。そっと、そーっと二人は来た道を戻った。足音が立たないように慎重に進んだし、衣擦れの音一つしないように気を付けた。窓から差し込む月明かりにトンネルの入り口が照らされている。ルーシーとスネイプは安堵の息を吐きながらそこへ足を踏み出そうとして――不意に二人を覆う奇妙な影に足を止めた。頭の上には三角形が二つ。長い腕の先には鋭い爪。トンネルの入り口にかかるシルエットにルーシーとスネイプはおそるおそる背後を振り返った。
「ひっ」
スネイプの手のひらがルーシーの口を素早く覆った。背後に立つ人狼がじーっとこちらを見ている。やばい。どうして。音は立てなかったのに――人狼が人間の数倍も嗅覚がいいことをすっかり失念していたのだ。
人狼の口から唸り声が聞こえだした。動け、動け、動け――!!
スネイプがルーシーの腕を掴んで走り出した。転びそうになりながらルーシーも慌てて駆け出す。背後に響く人狼の咆哮を聞くまいと大きな声を上げながらひた走った。
杖で明かりを灯す余裕すらないまま、二人は暗いトンネルをただただ走った。平坦な一本道だったことが救いだ。後ろからは人狼が獲物を狙い追ってくる。急げ、急げ、急げ――!!
「スネイプ!!」
出口が近付いた頃、一つの影が叫んだ。
「早く!! 早くしろ!!」
その影がジェームズだと分かったのは出口に辿り着く直前だった。転げるように根元から抜け出すとジェームズは後を追ってきた人狼に向かって杖を振る。どこからともなく現れた蔦が人狼を足止めすると、ルーシーとスネイプはその場に座り込んで何度も何度も咳き込んだ。息が苦しい。心臓が痛い。恐怖と緊張で震える手は未だ杖を握ることも出来ず、声を発することも出来なかった。
「信じられない……君たち、自分が何をしたのか分かってるのか?」
吐き捨てるジェームズの声は怒っていた。顔を上げると顔を強張らせたジェームズがスネイプとルーシーを見下ろしている。漸く息を整えたスネイプがジェームズを睨みつけた。
「人狼だ。ルーピンが! ホグワーツに人狼を入れるなんて何を考えてるんだ!?」
「……月に一度、変身するだけだ。普段はただの人間だ」
「ただの人間!? そう思わない奴のが多いから隠していたんだろう!?」
「聞け、スネイプ。リーマスはダンブルドアが認めて正式な手続きを経て入学している。何の問題もない」
「あぁ、そうだろうな。月に一度人狼に変身して人間を襲う以外は何の問題もない」
「誰も襲ったことなんかない!」
「襲われかけた!」
「君らが勝手に近付いたからだろう!? 君らが城で大人しくしていればこんなことには――っ、駄目だ! リーマス!」
何かに気付いたジェームズが慌てた様子で叫ぶ。ハッと振り返ると、蔦を引きちぎった人狼がこちらへ飛びかかってくるのが見えた。スネイプが逃げようとするが間に合わない。ルーシーは咄嗟にスネイプに覆い被さった。拍子に剥がれ落ちたマントを踏みつけた人狼の鋭い爪が肩を抉る。与えられた衝撃と灼けるような痛みに声も出なかった。
「ポッター!!」
闇夜に閃光が迸る。短い悲鳴を上げた人狼が飛び退くとルーシーの体はずるりと落ちた。咄嗟に支えてくれたスネイプの信じられないという顔が近くに見える。その向こうでジェームズが蒼白になっているのが見えた。
「おい、しっかりしろ!」
「だい、じょぶ、だから……すねいぷ」
逃げて。お願いだから。懇願は人狼の咆哮に掻き消された。
「リーマス! 駄目だ、止めるんだ!」
ジェームズが悲痛な叫びを上げる。ルーシーは灼けるように熱い肩を押さえながら起き上がった。指先にぬるりとした感触がする。血が出たのだと分かった。スネイプが何か言っているがよく聞こえない。耳のすぐ近くでドクドクと音がするのだ。感覚のない足はそれでもルーシーの思う通りに立ち上がり闇の中へ駆け出した。
「……っ、ルーピン……!!」
叫ぶと人狼とジェームズが同時にこちらを見た。
「こっち……!!」
「ルーシー!!」
顔面蒼白のジェームズが叫んだ。スネイプが何か叫んでいる。聞こえない。逃がさなければ。スネイプを。どうにかして逃がさなければ――人狼がこちらへ駆けてくる。逃げなければ。足が上手く動かない。肩が熱い。痛い。足が縺れて地面に倒れ込むと口の中に血の味が広がった。細かな砂粒も入り込んだらしく口の中がじゃりじゃりする。逃げなければ、早く――けれど体はもう言うことを聞かず、倒れたルーシーの上にのっそりと現れた大きな生き物が覆い被さってきた。獲物を逃さぬようにと大きな前足が背を踏み付けてくる。息苦しさに呻くと鋭い爪が肉に食い込んだ。
あ、噛まれる。人狼の鼻先が近付く気配にそう思ったが、予想外にも人狼は血に塗れた肩をべろりと舐めただけだった。まるで自分がこれから食らう獲物がどんな味なのかを確かめているようだ。傷付いた肩をざらりとした舌が滑る。いっそひと思いにしてくれればいいのに、まるでルーシーが抵抗するのを待っているかのように人狼は己の鋭い爪をべろりと舐めているようだった。遅れてやってきた恐怖心に、ルーシーはぎゅっと固く目を瞑った。
朝日が目に沁みる。ルーシー・ポッターはじくじくと痛む目をぎゅっと瞑って大きく息を吐き出した。眠い。呟きは誰にも拾われることなく部屋に溶けた。大きな欠伸をして窓の外へ目を向ければ冬晴れの青い空にふくろうが飛び去っていくところだ。誰かがふくろう便を送ったのだろう。ダンブルドアはルーシーの家にもふくろう便を送るのだろうかと溜息をつくと未だ傷の癒えない肩が痛んだ。
ルーシーが目を覚ましたのはあの夜から二日目の昼過ぎのことだった。目が覚めると医務室に寝かされていて、様子を見に来たマダム・ポンフリーから事の顛末を聞いた。スネイプが人狼からルーシーを救い、直後に駆け付けたダンブルドアがその場を治めてくれたとのことだった。
あの場にジェームズが駆け付けたのはシリウスから聞いたからで、救援に向かう際ピーターにダンブルドアに報せるようにと指示をしていたそうだ。
ルーシーを助けたスネイプはまだ一度も医務室に姿を見せてはいない。ポンフリーによれば、ルーシーを助ける為にスネイプが人狼に向けて放った魔法は闇の魔術で、薬を用いても傷が癒えなかったそうだ。ダンブルドアに説得されてスネイプが反対呪文で塞いだそうだが、反対呪文が未完成だった為に傷跡が残ってしまうのだとも聞いた。
”貴方は傷が癒えるまでここにいてもらいます。それから――”
ポンフリーに言われたことを思い出してまた溜息。もう一度寝ようと目を閉じたその時、医務室の戸が開く音がした。耳を澄ませていれば足音がこちらへ近寄ってくる。一言もなくカーテンが開いたその先に立つ人物を見てルーシーは目を瞬かせた。
「ジェームズ……」
「起きてたんだ」
ぶっきらぼうにそう言ったジェームズはすぐ傍にあったスツールに腰を下ろした。こちらを見ようとしないジェームズの顰め面が彼の不機嫌さを物語っている。ルーシーは何も言わなかった。何を言ったらいいのか分からなかったし、ジェームズもルーシーが何か言うことを望んでいるようには見えなかったからだ。
「グリフィンドールの点数は最悪だよ。まだクリスマス前だってのに優勝杯は絶望的だ」
暫しの沈黙の後、ジェームズから出てきたのは恨めしげな愚痴だった。
確かにジェームズからしてみれば不満しかないのだろう。大事な友人であるルーピンの秘密を暴こうとしたことも、人狼に変身した彼に傷を負わされてしまったことも、点数が減らされたことも、何もかもが彼の不機嫌の理由になり得ることだ。
ルーシーは顔を顰めた。元を辿ればスネイプを唆したシリウス・ブラックが悪いと思うのは勝手なことだろうか。確かに考えなしにルーピンの秘密を暴こうとしたこちらに非はあるが、どうなるか分かっていてスネイプを唆した彼とて同罪だと思うのだ。だからこそ文句はシリウスに言ってくれと言えば、返答が気に入らなかったらしいジェームズが顰め面でルーシーを睨んだ。
「どうしてスネイプを止めなかったんだ? まさか君もリーマスを退学にしたかったのか?」
「止めたって聞かないよ。分かってると思うけど」
ルーシーはジェームズから顔を背けた。まだ肩が痛いのに文句なんて聞いてられない。溜息をつくとまた肩が痛み、それを見咎めたジェームズが鼻を鳴らす。
「スネイプなんか庇うからだ」
「友達を庇っただけだよ」
「友達? スネイプが?」
ジェームズが馬鹿にしたように言った。むっと顔を顰めてジェームズを見ると、ジェームズも不機嫌を露にこちらを睨みつけている。きっと今の自分はこんな顔をしているんだとルーシーは思った。
「あいつはただ、僕に嫌がらせをしたいだけで君といるんだ」
「そんなの知ってる」
「知ってるならどうして一緒にいるんだよ。君はそんなに馬鹿だったのか?」
「どうして? どうしてって言ったの?」
声が震えるのが分かった。腹が立って仕方がなかった。
「分かってるくせに! ちゃんと分かってるくせに……っ」
ジェームズは何も言わない。滲む涙を拭いもせずにルーシーは言った。
「でもどうだって良いんだよね、スリザリンに組み分けられた私なんか妹じゃないから……っ」
息が苦しい。肩が痛い。本当はもっともっといっぱい言ってやりたいことがあるのに、どれ一つとして言葉になることはなかった。言いたいことがあり過ぎて何を言ったらいいのかも分からないのだ。
ルーシーはジェームズに背を向けた。肩が酷く痛んだがどうだって良かった。ジェームズの顔なんて見たくなかったし、声なんて聞きたくもなかった。
「出てって!! 近付かないで!」
溢れ出る涙が止め処なく枕を濡らしていく。堪え切れない嗚咽が漏れるのを手で覆い隠すが何の効果も得られないことは分かっていた。
ジェームズは何も言わなかった。立ち上がったのが気配で分かって、やがて遠くで医務室の戸が静かに閉まった音が聞こえた。謝ってもくれない。言い訳もしてくれない。所詮スリザリンに組み分けられたルーシーなんて、どうなろうが構わないのだ。
兄妹なのに。双子なのに。
マダム・ポンフリーがやって来るまで、ルーシーは布団に潜ってひたすら泣き続けた。