魔法とは便利で厄介なものだ――それがタミの母の口癖だった。
杖を振るだけで部屋は綺麗になるし、洗い物だって洗濯だってしてくれる。カップを呼び寄せる事も出来るのにどうして厄介なのかと尋ねたのは、タミがハリーと友人になって一年ほど経った頃で、尋ねた時タミの母は「そう魔法に頼りすぎるものじゃないよ」と微笑んだ。
「自分で動く事を忘れちゃいけない。私達は自分で動くことの出来る生き物なのだから」
望んだものへ伸ばす手がある。望んだ場所へ行ける足がある。
タミ、成長しなさい。ルーシーは何度もそう諭した。
「人間とは、成長する生き物なのだから」
母の言う事は、幼いタミには難しくてよく分からなかった。四月に十一歳になったけれど、今でも大して理解はしていない。
タミが理解する事が出来た事と言えば、母が人間ではないという事だけだ。
タミの母は吸血鬼らしい。”らしい”というのはタミが母の吸血現場を見ていないからで、父との話を聞くに母が吸血鬼である事は曲げようのない事実だ。両親はそれをタミに隠しはしないし、むしろ物心ついたタミが最初に両親から教えられた事が母が吸血鬼であるという事だったくらいである。タミの中で母が吸血鬼というのは”当たり前”の事だった。
数年前、ハリーと出会った時に母は自らを”ヘレナ”と名乗った。これもタミが母の正体を聞かされた時に言われた事で、彼女は家の外では”ヘレナ”と名乗っている。目の色も本来はアンバーよりも遥かに純度の高いゴールドだ。尤も、吸血鬼とは夜闇の中で生きる為、金の目は陽の下で暮らす母には不便らしい。ありふれたヘーゼルに変えているのは人間に溶け込む為だと聞いた。
母が目の色も名前も変えて生活している理由をタミは知らない。母は”面倒事に巻き込まれるのは嫌なんだ”としか言わなかったし、父は”どんな姿をしていようと、彼女が私の妻である事に変わりはない”と相変わらずの溺愛ぶりで答えただけだった。
「ルーシー」
父が母を呼んだ。
どちらかと言うと表情に乏しい父は、外では顰め面か無表情のどちらかしか見せないと母から聞いている。平時でも薄く痕の残る眉間を見れば一目瞭然だが、彼はこの家の中にいる間は微笑むし、時には声を上げて笑う事だってある。それを見られるのは家族である母とタミの二人だけなのだと、タミは知っている。理解している。
父が母を呼ぶ声はいつだって優しい響きを持っている。そしてそれはタミを呼ぶ時もそうだ。
タミを叱る時でさえ、彼の声には優しい響きがある。
タミは父も母も大好きだった。
「一緒に行くの?」
父の肩まで伸びる黒髪を掻き上げて頬にキスを送りながら母が問いかけた。娘の前だということは、この二人には関係ないらしい。もうすっかり慣れてしまってはいるが、そろそろ自重を覚えても良いのではないだろうかと思わなくもない。
母の問いかけにタミの父は溜息を漏らした。渋る理由はタミにも分かる。分かるが、一緒に行きたいと願う娘の気持ちを分かって欲しい。もちろん、分かっているからこそ父は溜息を落としているのだけれど。
「……今は時期が悪い」
「手紙が届いてダイアゴン横丁は買い物ラッシュだろうね。生徒達でいっぱいだ」
くすくす笑う母の台詞に父がまた呻きを漏らす。
タミが九月から通うことになる学校は、これまで通っていた学校とは別のものだ。これまで通っていた学校からは既に籍を外してあり、九月からはホグワーツ魔法魔術学校という魔法使いや魔女を育てる学校へ通うことが決まっている。そしてそれはタミの父であるセブルス・スネイプの職場でもあるのだ。セブルスがダイアゴン横丁へ行くのを渋る理由はそこにある。
家の外では仏頂面の父は職場でももちろんそれを貫いている。同僚の教師陣にはもちろん、生徒達に笑顔を見せる事はない。
セブルスの教育方針は少しばかり水準が高く、彼が受け持つ魔法薬学の授業は生徒達にとって最大とも言うべき難関である。妥協を許さない彼の教育は当然ながらタミにも課せられており、幼い頃から魔法薬学はもちろん他の教科まで勉強させられている。
タミにとって幸いだったのは父の教え方が上手だった事だろう。分からない箇所はそのままにしなくて済んだし、タミが理解出来るまで何度も教えてくれた。少しばかり言葉に刺がある時はあったけれど、許容範囲内だ。しかしそれは相手がタミだったからであり、自分の愛し子でもない他の生徒達へのセブルスの態度は中々に酷い。
簡潔に述べよう。セブルス・スネイプは嫌われ者なのだ。
尤もセブルス自身はそれを全く気にしていないし、むしろそれを望んでいる節すら見受けられる。娘であるタミとしては大好きな父が嫌われているのは何だかなぁ、と思うのだが、どうやら母のルーシーはタミとは考えが違うらしい。
「見せつけてやれば良いんじゃない? 実はこーんなに家族を溺愛する人でした、って――あぁ、でもやっぱり駄目。セブルスの笑顔を他の奴らに見せるなんて勿体ない」
私とタミだけが知っていれば良い。そう続けるルーシーも、いっそ病的なまでに夫を愛しているのだ。
「じゃあ、休みの終わりの頃は? その時なら一緒に行ってくれるでしょう?」
父のシャツを引いて訴えれば、難しい顔をしていたセブルスが仕方ないなと微笑む。この顔を知らないなんて、ホグワーツの生徒達は損をしているとはルーシーの言だが、タミも賛成である。見事なまでにお父さんっ子に育ったタミは、結局はこの両親の娘なのだ。
入学式を迎えるまでの一ヶ月は平凡に過ぎていった。
プリベット通りの家に戻ってきたハリーとは誕生日の翌日に会う事が叶った。用意していた誕生日プレゼントにハリーはとても喜んでくれたけれど、ふとした時に思い詰めたような顔をするようになった。
ハリーの両親について、タミは殆ど何も知らない。
セブルスとルーシーは自分達が魔法使いと魔女である事を隠していないけれど、魔法界の出来事について殆ど何も教えてくれなかったからだ。毎朝ふくろうが届ける新聞などタミは興味を持たなかったし、父から与えられる課題や母から教わる呪文では魔法界の事など知ることは出来ない。知ったのはタミの年頃には難しすぎる複雑な薬の調合方法と、これから学校で教わるであろう簡単な魔法だけだ。
「タミ……あの、話があるんだ」
ホグワーツへの入学式を一週間後に控えた日の午後、会った時からずっと俯きがちだったハリーが重苦しい口調で言った。
通っていた学校を止めた事、遠くにある全寮制の学校に通うのが決まっている事――残念そうに語るハリーは、けれど魔法については何も言わなかった。口止めをされているのかもしれないし、ただ言いたくなかっただけなのかもしれない。
「そっか……」
「ごめん……でも、クリスマス休暇と夏休みには帰って来れるんだ。絶対帰ってくるから……だから、またこうして会ってくれる?」
「もちろん! ずっと友達だよ」
弾かれたように顔を上げたハリーがみるみる表情を綻ばせていく。こんなにも喜んでくれる友達にタミも満面の笑みを浮かべた。
教師をする傍ら、研究者として学会で論文を発表しているセブルスにとって、生徒に煩わされない夏休みは貴重な研究の時間だった。家族ももちろん大切にしているが、純粋に魔法薬学という分野が好きなのだ。
そんな彼の元に送られてきた一通の手紙。懇意にしている学者から新薬のレシピが送られてきたのは二週間前の事で、いそいそと研究室へ向かったセブルスは食事とトイレ以外で部屋から出てこなかった。そんな事もう慣れっこになっていたルーシーは日に一度セブルスが生きているかを確認しに行っただけで、あとは好きなようにさせていた。
「パパ! せめてお風呂に入ってちょうだい!」
耐え切れずタミが訴えたのはセブルスが研究室に篭ってから一週間後のことで、食事を摂りに来たセブルスは漸く自分が風呂にすら入っていなかった事に気付いたらしい。
濡れ羽色の髪は脂でべっとりしていたし、椅子に座り仮眠を取っていただけのセブルスは、愛しい娘からの「パパ臭い! 頭も足も臭い!」の言葉に大層傷つき、肩を落としながら風呂場へ向かった。ルーシーの笑い声が家中に響いたのは余談であり、風呂を出てすっかり綺麗になった父に求められたタミが「パパ、いい匂い。大好きよ」と頬にキスを送ったのも余談である。
そんな調子で日は過ぎていき、入学式を三日前に控えたこの日、セブルスは漸く約束を果たしてくれた。ダイアゴン横丁へ連れて来てくれたのだ。
はしゃぐタミに「前を見て歩くように」と釘を刺すセブルスはいつもの大好きなパパではなく、どちらかというと”スネイプ教授”に近いだろう。万が一にでも生徒達に見られたくないというのはセブルスの言であり、見せたくないというのがルーシーの言であった。
ローブを新調し、教科書を買い揃えてカフェで軽い昼食を摂る。増える荷物は、さすが魔女と言うべきか、検知不可能拡大呪文をかけてスペースを広げたルーシーのバッグの中に綺麗に収まってしまっている。
「私もその呪文使えるようになりたい」
「学校で教わる呪文を全て覚えられたら教えてあげるよ」
だから頑張りなさいと笑顔でえげつない事を言うルーシーは、こうして陽の下で見ると普通の人間だ。牙も無いし――タミは牙を生やしたルーシーを見た事がないのだが――吸血鬼には到底見えない。身内の贔屓目を除いても綺麗といって差し支えないだろうその容貌に、これから成長していく自分も近づけるのだろうか。見た目は悪いより良い方がいい。
「ヘレナ」
三人で外出するとセブルスはいつもルーシーを”ヘレナ”と呼ぶ。これはタミが生まれるずっと前から決まっていた事のようで、彼が外でうっかり”ルーシー”と呼んだ事は一度としてない。呼ばれたルーシーも平然と「なぁに?」と笑みを返している。
「次は杖だ」
「あぁ……あぁ、そうね。忘れてた」
どこか陰を落としたように微笑んだルーシーがポケットから手紙を取り出す。ホグワーツから送られてきた手紙だ。教科書はオーケー、ローブもオーケー――リストを見ながらぶつぶつと呟くルーシーの独り言が聞こえる。
「あとは鍋ね。薬瓶とはかり、望遠鏡……これは私が買ってくるわ。セブルス、タミと杖をお願い」
「一緒に行かないの?」
これまではどの店も一緒に買いに行っていたのに。突然のルーシーの提案にタミは困惑を露わに尋ねた。けれどそれに対するルーシーの返答は「また後でね」という言葉のみで、タミの疑問に対する答えですらない。ルーシーにしては珍しいその対応に少なからずショックを受けていると、肩に手を置いたセブルスが「行くぞ」と歩みを促してくる。
「でも、ママが……」
「仕方あるまい。あの店に行きたくないんだ、彼女は」
「どうして?」
杖は魔法族にとって絶対の必需品だ。これがなければ満足に魔法を使う事すら出来ないのだから、生涯使うであろうその杖を購入するというイベントは、購入する本人にとってもその親にとっても一大イベントではないのだろうか。それともそれは人間の親だからそう感じる事であって、吸血鬼であるルーシーにとっては些事でしかないのだろうか。
肩を落とすタミに、予想を遥かに上回る悲しみを読み取ったセブルスが苦い顔を浮かべながら口を開いた。
「あまり大きな声では言えないが……彼女は闇の生き物だ」
「知ってるよ」
「彼女の血を宿したお前を、おそらく一角獣は受け入れようとはしないだろう。あれはより光に近い生き物だからな」
「一角獣がいるの? 店に?」
杖を売っている店なんだよね? と首を傾げるタミにセブルスは微かに笑んだ。
「正確には一角獣の毛だ。杖の芯に使われているが、彼女が言うには毛だけでも十分らしい。杖は、まるでそれ自体が意思を持っているかのように所有者を選ぶ――”闇”である自分がその場にいる事で、杖の芯となった一角獣達が何かしらの反応を示す事を恐れたのだろう」
彼女は君に甘いからなと微笑む父にタミは安堵の息を漏らした。どうでも良いと思っていたわけじゃなかったのだ。タミの為に身を引いてくれた母に感謝したが、同時に彼女の血を受け継いだ自分に対してどんな反応を示すのか考えると恐ろしい。
「行ってみない事には始まらん。何か影響が出たらその時対処すれば良いだけの話だ」
「その言葉、信じるからね。何とかしてね」
スネイプのローブをぎゅっと握りしめ、二人はオリバンダー杖店へと向った。
→ 賢者の石 04